クレッチマーによる天才の本質

精神病と非合理性に関する論述が終わった。準備を終えていよいよ天才論に入っていく。

天才と精神病質は関係がある。すでに引用したように天才には精神病質の割合が非常に多い。今までに書かれた文章のうち、天才と精神病質の関係を最も的確に表現したのはクレッチマーである。該当箇所を『天才の心理学』から引用する。

天才には単なる才能のほかになおダイモニオンが加わらなければならない。そしてこのダイモニオンこそ、まさしく精神病質的要素と内的に密接な関連をもつもののように思われる。このデーモニッシュなものが、外見上説明しがたいものや、精神的特殊能力や、非凡な思想や情熱など天才の本質と見なされるべきものすべてを包括しているのである。

この短い文章の内に天才のもっとも重要な本質が表現されている。クレッチマーは天才には「単なる才能」と「ダイモニオン」の両方が必要だと言う。「単なる才能」とは私の言葉で言うと「合理的能力」のことである。「ダイモニオン」は「霊的なもの」と訳すべきで、私の言葉では「インスピレーション」となる。そしてそれは精神病質的要素と関連がある。このクレッチマーの言葉は天才の本質を的確に表現している。

「単なる才能」=「合理的能力」と「ダイモニオン」=「インスピレーション」の例を挙げる。哲学者でいえば合理的能力は語学力、読解力、論理展開能力である。生物学では合理的能力は生物学の知識と実験を正確に行う技術力である。歴史学では文献から史実を実証的に証明する方法だ。哲学や生物学、歴史学などの学問ではインスピレーションは通常洞察力が該当する。本質を見抜く能力である。

ピアニストは合理的能力は音を正確に把握する音感であり指が正確に動く能力である。インスピレーションは音楽作品の精神的価値を理解し解釈する能力だと思われる。

料理では合理的能力は庖丁など調理器具の使い方であり、魚のさばき方、味付けの正確さなどの技術。インスピレーションは料理に感動すること、料理の文化的側面だろう。

サッカーでは合理的能力は技術である。シュートやパスやトラップの正確さなど。サッカーではときにイマジネーション溢れるプレイがあり感動させられるがそれはインスピレーションと言うべきだろう。

絵画でも合理的能力がある。色の出し方、構図のとり方、デッサンなどだ。デッサンの教科書をちらっと読んでみた。例えばリンゴを鉛筆で描く場合だと、リンゴのどこに光が当たり、光がどう反射し、どこが影になるか、などを正確に考える。デッサンは芸術と言うより技術ではないかと思ってしまう。物理の勉強をしているかのようだ。これらが絵画の合理的能力だ。インスピレーションは自然や人間や風景に感動することだ。自然の真の姿を捉えること。

合理的能力とインスピレーションの関係

福島章『天才 創造のパトグラフィー』に次の図がある。詩人の創作を図示している。

白昼夢とはインスピレーションの一種である。しかしインスピレーションはそれだけでは他人に伝わるとは限らない。それを詩の作品にするには合理的能力である詩の技法が必要である。さらに引用する。

個人的な要素を除いたり巧みな修正や隠蔽を行い、美的スタイル的な快感による籠絡を試みることが詩の技法であるとフロイトは言う。

図を私の言葉に置き換える。

まずインスピレーションがある。そこに合理的能力が加わって作品になる。絵画の創作は次の図である。

絵画ではインスピレーションは感動である。例えば自然や風景を見た時の感動。合理的能力は色の出し方、デッサンなどの合理的方法。感動することはそれ自体素晴らしいが、それだけでは作品にならない。感動を絵の技法という合理的能力を通すことで他人にそれが伝わる。そして作品になる。

哲学ではインスピレーションは洞察であり合理的側面は事実と論理である。図で示す。

「洞察と主観」と言う記事ですでに詳しく述べている。洞察と主観

私が現在書いている天才論も最初に自分の直感がある。今までの天才の作品に触れた体験やいろんな書物から徐々に自分なりの直観を得る。しかしそれは正しいか分からない。正しかったとしたら洞察と言えるが、正しくないならただの主観だ。仮に正しかったとしても正確ではないだろうし、さらにそれだけでは他人には理解できない。事実に当たり論理的に考えて、自分の直感が正しいかを確認し、さらに数多くの事実と照らし合わせ内容を正確にし他人に理解できるようにしていく。すると論文ができる。

私の場合最初に天才に関する自分の直感があり、さらにその直感が正しいかを確認するために関係書を読む。大抵「やっぱりそうか」「そうなるよな」と思いながらどんどん読んでいく。関係書物の内容は大雑把に言って私の直観と符合する。時々「ここは自分の考えは間違えてたかな」とか「ここは不足してたな」という箇所がある。「ここはもっとこう考えたほうがいい」「この事例があったほうがもっと具体的になる」という箇所もあり、洗練し正確にし具体的にしていく。

ニュートンの創作の方法について『天才の精神病理』から引用する。

ニュートンの知性の個性的特徴は世界の本質つまり原理を、無媒介的に直感的に捉えたことにある。二十三、四歳のときすでに、彼は生涯の最も重要な諸原理の発見をなしとげていた。しかし発見した諸原理の確実さは彼自身にとっては明証的絶対的であるが、これを実験あるいは推理によってただちに証明することができなかった。『プリンキピア』を著した目的が万有引力の法則をユークリッド幾何学的に証明することであったように、物理学者としての彼の後半の人生は若き日に発見した諸原理を実験あるいは推論によって証明することにあったといえよう。

ニュートンは原理を「直感的に捉えた」と記載がある。恐らくそれまで色々な書物や自然現象を見た経験から原理を徐々に直感的に原理を捉えたと思われる。直感と言えど全く何もないところから原理を思いつくのではない。ニュートンも書物や自然などそれまでの体験から徐々に原理を直感し感得したはずである。しかし直感だけではそれが本当の洞察なのか単なる直観なのか区別がつかない。引用文にある通り「実験もしくは推論によって」証明することが必要とある。実験とは事実であり、推論とは論理であるから、私の言葉で言うと最初に「洞察」がありそれを「事実」と「論理」で正しいかどうかを確かめ、正確に具体的にしていき証明していくということになる。この方法だけが正しい創作の方法ではないようだが、かなり一般的に見られる創作の方法のようだ。ついでにさらに引用しておく。

このようなニュートンの知的世界の本質をなす特徴はわれわれ精神科医の目から眺めると分裂病圏に属する患者に固有な世界の捉え方にきわめてよく似ている。彼等患者も世界の本質を無媒介的、直感的に捉える。そして確実性は自己にとっては自明なのであるが、それを論理的に他者に説明することは不可能で、妄想的ともいえる特異なやりかたで包括的に世界の全体を説明してみせるのである。

直感型の人が直感的に世界を捉える方法は、ニュートンのような天才においては人類史上に残る偉大な発見となるが、単なる精神病者においては、その直感は単なる妄想となりその論理は妄想の合理化になってしまうと述べている。天才と精神病者で同じ手法が見られる。同様に中間的な二流の人たちにも直感型の人であれば同じ手法が用いられる。ただこの方法は直感型に共通する手法であり、他の型の人には当てはまらない可能性もある。

以上がインスピレーションと合理的能力の関係である。

続きはIQが低い山下清は天才ではないのか?をご覧ください。


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