IQが低い山下清は天才ではないのか?

宮城音弥『天才』から引用する。

天才には知的優秀者が多いが、知能の優秀な者が天才ではない。

「天才に知的優秀者が多い」のは天才であるためには合理的能力が必要だからである。「知能の優秀な者が天才ではない」のは天才であるためには合理的能力だけでは足りずインスピレーションも必要だからである。

福島章『天才 創造のパトグラフィー』から引用する。

天才と言われる人々のなかにはきわめて高い知能の人が多いことは事実であるが、知能指数がそれほどでない人も多い。ただし山下清のようなきわめて例外的なケースを除いて知能が平均以下、とくに精神遅滞といわれるような人々にはあまり見られない。

天才には知的優秀者が多い。知的優秀とはIQが高いと言ってもいい。山下清はその例外と述べている。山下清には確かに知恵遅れ的なところがあった。IQは低かったかもしれない。しかし彼は合理的能力は持っていた。絵をかいて自分の感動を他人に伝えるために必要なだけの絵の技法、合理的能力を持っていたのである。だからこそ我々は彼の絵を見て感動する。そして彼は天才のひとりとして認められている。

山下清の絵を載せる。





IQは合理的能力の例のひとつである。最も代表的な例と言えるかもしれない。しかしIQだけが合理的能力ではない。そして天才の条件のひとつはIQが高いことではなく合理的能力を持つことだ。インスピレーションを他人に伝えるに足る合理的能力を持つこと。だから山下清のように絵画に関する技術的な表現能力を持っていればIQが低くとも天才たり得る。山下清のIQが高いかどうかを問題にするのはそもそも的外れと言って良い。「天才はIQが高いか?」という問いに対する答えがどっちつかずのあいまいな答えになるのは、答えが間違っているのではなく問いがピント外れだからである。問いがおかしいので答えもおかしくなる。

「天才はIQが高い人か?」という問いは、適切な喩えか分からないが「日本人は本州に住んでいる人か?」という問いに似ている。答えは「日本人の多くは確かに本州に住んでいる。しかし本州の近くの他の島に住んでいる場合も多い。本州に住んでいても日本人じゃない外国人もいるし、まれに本州から非常に遠いところに住んでいる日本人もいる。」となる。私のように九州に住んでいる人は「本州近くの島」に住んでいるし、本州に住んでいても外国人もいる。日本人でも海外に住んでいる人もいるからこういう答えになる。「日本人は本州に住んでいる人か?」という問いを発する人は「日本人とは何か」について全体像がとらえられておらず、部分的な知識で推測するからこんなとんちんかんな問いを発するのである。日本についてほとんど知らない外国人が日本人に会うたびに、どうも日本人は本州に住んでいるが多いぞ、という感覚を持つ。それで勘違いしているのに似ている。同様に「天才とは何か?」について専門家の間でも全体像がとらえれていないから「天才はIQが高いか?」というとんちんかんな問いが真面目に問われる。

山下清の話に戻る。ただ確かに山下清の絵は絵の技術力という点でどこか子供の絵に近い感じがする。技術力はそこまで優れていなかったのかもしれない。だから絵画をインスピレーションより技術として見る人は山下清を評価しないに違いない。現在でも山下清を評価しない専門家はいると言う。しかし自分の感動を他人に伝えるだけの十分な技術力は彼は明らかに持っている。感動は確かに伝わってくる。であるから彼は天才の条件である合理的能力は持っていると結論していい。

さらに言うと絵画を何か理知的なものがないと評価しない人も山下清の絵を評価しない傾向にある。そういう人は山下清の素直で素朴な感動を理解しないのだろう。私は山下清の作品は天才と呼ぶにふさわしい作品だと思う。

ただ無論、IQは合理的能力の代表的な例ではあるため、福島章氏の言う通り天才にはIQの高い人が多く、知能が平均以下の人が滅多にいないのもまた事実ではある。

続きは天才と凡人 程度の違いか質の違いかをご覧ください。


■上部の画像はゴッホ

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