天才と精神病を分けるもの

天才と精神病は同じものを見ていると述べた。しかし見ている主体の偉大さが違うため全く別物だと述べた。では両者を分けるものは何だろうか。すでに述べたのは天才はインスピレーションだけではなく合理的能力も持っている点だ。ではなぜ天才はその両方が持てるのか。論じていく。

天才は合理的能力とインスピレーションの両方を持つ。すでに述べたように東大理IIIの人は優れた合理的能力を持つ。では例えば東大や京大の優秀な学生が精神病にかかれば天才になるのか。その場合、合理的能力を備え、かつインスピレーションも備えそうに見える。

私はそれも難しいと思う。多くの場合、高い合理的能力を備えた人でも精神病にかかると合理的能力は崩壊するからだ。しかし一部の人は高い合理的能力が精神病によって崩壊しない場合がある。その条件は何か。誰も指摘しないので私が指摘する。「精神の大きさ」である。

「精神の大きさ」と言ってピンと来てくれればいいが、よく意味が分からんと言う人もいるだろう。例えばベートーベンの交響曲第九番の第四楽章を聴くと私は「ベートーヴェンとは何と偉大な精神か」と思う。これが精神の大きさの意味である。

ベートーベンを例に挙げたのは芸術だけが人類の偉大な分野だからというわけではない。それは芸術がとくに予備知識を必要とせず、完全な素人であっても感受性さえあればかなりの程度、理解できるからである。だから多くの人が歴史上の人物の偉大さと接するのは、自分の専攻している分野の先人と芸術家、この両方からである場合が圧倒的に多い。例えば私は物理学を知らない。だからアインシュタインの物理学上の偉大さはごく表面的にしか分からない。ただアインシュタインは哲学的手記も残しているのでそこから偉大さを覗いて見れるということになる。

芸術が好きな人はこの説明でよくわかってもらえると思うが、それでも分からんと言う人もいるかもしれない。ただ誰しも優れた人に会い「この人は精神がいくつあるんだろう。」と思った経験はあると思う。「あれもやって同時にこれもやって・・いくつ心があるんだ」と思ったことはないだろうか。そのような優れた人は精神が大きい人と言っていいかもしれない。もしくはいわゆるオーラのある人は精神が大きい人である。

下図は精神の大きさがそれほど大きくない健康者Aさんである。仮にこの人の精神の大きさを10とする。

下図は精神が大きい健康者Bさんである。ただ優秀な健康者ではあるが天才ではないとする。仮にこの人の精神の大きさを50とする。

ここで二人が精神病質になったとする。無意識の侵入である。仮に5の無意識の侵入があったとする。

Aさんはもともと精神の大きさが10しかないので5の無意識の侵入があれば合理性がほぼ崩壊する。

それに対してBさんは精神の大きさが50あるため5の無意識の侵入があっても合理性を保つ。少しは合理性が崩れるかもしれないが大体残る。

適切な比喩か分からないが塩水にたとえる。10リットルの水に500グラムの塩を溶かすと水は塩辛くなる。水の量が精神の大きさ。塩が無意識の侵入。塩辛くなるのが合理性の崩壊だ。精神の小さいAさんは10リットルの水と同じで、少し塩が入っただけですぐ塩辛くなり合理性が崩壊する。しかし50リットルの水であれば同じ500グラムの塩をいれても大して塩辛くならない。精神の大きなBさんは50リットルの水と同じで大して塩辛くならず、精神病質にはなるが合理性は保たれる。

そしてBさんは画家であれば無意識によるインスピレーションが得られて想像力豊かな絵を描くだろう。物理学者であれば単に合理的で才能ある物理学者だったのが、インスピレーションで独創的で天才的な物理学者になれる。普通の人が体験できない闇の部分を生きながら合理性を保つ。Bさんはここで天才になる。合理的能力とインスピレーションか共存するのだ。

もう一度クレッチマーの『天才の心理学』から引用する。

精神病質者の多くは社会的能力の上から見てもマイナスの人である。しかし高い才能と特別な遺伝的条件を持つ者においては、精神病質は精神的生産力に対して抑制的に作用しない。それのみか、我々が天才性と呼ぶ心理学的複合体にとって、直接の欠くべからざる部分的な一要因となる。

Aさんは無意識の侵入によって理性が崩壊し「社会的能力の上から見てもマイナスの人」になる。しかしもともと才能豊かであったBさんは無意識の侵入で天才となる。無意識の侵入は「天才性と呼ぶ心理学的複合体にとって、直接の欠くべからざる部分的な一要因となる」のである。

しかしBさんの病気が進行し、無意識の侵入が5から20に増大したとする。下図がそれである。

この場合さすがのBさんももはや合理性を保ちえず精神病者となる。

福島章『天才の精神分析』から再度引用する。

天才と言われるような人々はいずれもその種のデーモンを抱えているものだろうが、そのスケールや相貌はその人その人で違うようである。メンデルスゾーンやヴィヴァルディのように、そのデーモンをうまく手なずけて閉じ込めたうえで均整の取れた仕事をした人もいれば、フーゴー・ウォルフやロバート・シューマンのように、結局そのデーモンに食い殺されてしまった天才もいる。

一時的には天才であったBさんが精神病者となってしまったのは「フーゴー・ウォルフやロバート・シューマンのように、結局そのデーモンに食い殺されてしまった」例だと言える。

逆にBさんが精神科医にかかり薬を投与され精神病が治療されたとする。下図。すると一時的には天才であったBさんはインスピレーションを失い合理的能力だけがある平凡人に戻る。

クレッチマー『天才の心理学』から再度引用する。

もし天才の素質からこの精神病理学的な遺伝因子、すなわちデーモニッシュな不安と精神的緊張との酵素となるべきものを除外してしまったら、後にはただ才能ある平凡人が残るのみとなるであろう。

Bさんは「ただ才能のある平凡人」に戻る。

よって天才とは精神の大きな人が少し精神病的になった時に生まれると一応結論できるかもしれない。ここで最初の疑問に戻る。東大生や京大生が精神病になったら天才になれるのか。答えはその東大生が十分に精神が大きければ天才になりえると言う結論になる。

東大生はどのような人かと言うとテストが解ける人である。実際入学基準はテストであってそれを通過した人が入学するのであるから当然である。テストが解けるのは合理的能力のひとつの形と言っていい。しかし東大生だからと言って精神が大きいわけではない。精神が大きい人は東大生のなかにもたまにいる。しかしそれは他の大学でも精神の大きい人がいる割合と同じだと思う。だから東大生は精神が大きいとは限らない。そのため東大生が精神病になったとして天才になるとは限らない。ただ東大生は少なくとも合理的能力を持っているから、十分に精神が大きければ精神病質になることで天才になる可能性は全くゼロではないかもしれない。

いずれにしても合理的能力を持ち精神の大きい人が少し精神病質になった時と言うのは天才を生み出す最も典型的な状況と言っていい。精神が大きければ合理的能力とインスピレーションが共存できるからだ。

続きは健康な天才という稀な存在をご覧ください。


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