洞察と主観

古くからある定説はそれが言い古されているからと言って正しいわけではない。 しかし逆に言い古されているからと言って間違いなわけでもない。 単に信じればいいというものではなく、単に疑えばいいというものでもない。 自分で判断しなくてはならない。

論理に従って自分の頭で考え、
事実に従って自分の眼で見て、
真理に従って自分の精神で洞察する。

当然ながらこの三つを大切にしないと学問の発展はない。

厄介なのは最後の洞察である。洞察もしくはインスピレーションは単なる主観と表面上は区別がつかない。 洞察力のある人間の持つイメージは真理を含むある意味客観的なインスピレーションだが、洞察力のない人間のもつイメージはただの主観だ。

洞察を持つ人はその洞察がただの主観ではないということを示すため、事実と論理に還元してその洞察が真理であると証明しなくてはならない。空中に浮いているインスピレーションは事実と論理によって地に足がつかなくてはならないのだ。それをしないと洞察は単なる主観との区別がつかない。

ある人が独創的な論文を書くとき、その独創性は多くの場合その洞察力に由来する。なぜなら多くの場合、論理と事実はその分野を研究する者たちに共通の要素であるからだ。しかし洞察はその人の個性であり、他の人と共有していない要素である。であるから研究者の独創性は多くの場合その洞察力に由来する。

私が大学時代教授たちと険悪になったとき、教授たちが私を鎮圧するのに苦戦したのは、私の主張がどの本にも載っていなかったからだ。彼らが得意な「図書館で調べる」が通用しなかったのだ。彼らが共有している論理と知識では対処できなかった。

彼らは囲碁や将棋でいうと大量に定石を頭に詰め込んでいる人たちだった。私はそんなに定石を知らず気にせず定石外れな手を打っていた。彼らはそれに対し定石で対応しようとしたため苦戦したのだ。

いくら頭が良くて論理力があっても、いくら知識が豊富で事実をたくさん知っていても、洞察力がなければそれまでの研究をなぞったり整理したり洗練したりする程度しかできない。独創性の正体は洞察である。

論理、事実、洞察いずれも大切だが、そのうちどれをより大切にするかは人によってバイアスが違う。

洞察を重視する奔放な人々と事実と論理を重視する確実な人には多くの場合感情的な対立がある。 プラトンとアリストテレスの対立だ。

ユングに『タイプ論』と言う本がある。人間の性格を分類した本である。 序論のさらに冒頭にハイネによるプラトンとアリストテレスに関する言葉が引用されている。 孫引きになるが引用する。

プラトンとアリストテレス!これは単に二つの体系であるにとどまらず、 むしろはるか昔からあらゆる衣装をまとって多少とも敵意をもって対立してきた 二つの異なる人間のタイプでもある。この二つのタイプはおもに中世全体を通じて、 しかし今日に至るまで戦ってきたが、この戦いこそキリスト教会史の最も重要な内容をなしている。 たとえ別の名前を名乗っていても、内容はいつもプラトンとアリストテレスの対立であった。

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