古くからある定説はそれが言い古されているからと言って正しいわけではない。 しかし逆に言い古されているからと言って間違いなわけでもない。 単に信じればいいというものではなく、単に疑えばいいというものでもない。 自分で判断しなくてはならない。
論理に従って自分の頭で考え、
事実に従って自分の眼で見て、
真理に従って自分の精神で洞察する。
厄介なのは最後の洞察である。洞察もしくはインスピレーションは単なる主観と表面上は区別がつかない。 洞察力のある人間の持つイメージは真理を含むある意味客観的なインスピレーションだが、洞察力のない人間のもつイメージはただの主観だ。
洞察を持つ人はその洞察がただの主観ではないということを示すため、事実と論理に還元してその洞察が真理であると証明しなくてはならない。空中に浮いているインスピレーションは事実と論理によって地に足がつかなくてはならないのだ。それをしないと洞察は単なる主観との区別がつかない。
■2024年12月6日追記。
パスカル『パンセ』に次の言葉がある。
私たちが行うあらゆる推論は、結局は直観に道を譲る。
しかし想像は直観に似通っていながら、それに対立するものなので、両者を見分けることはできない。ある人が、私の直感は想像だと言えば、他の人は、自分の想像は直観だと言う。基準が必要になるだろう。理性がその役目を買って出るが、それはあらゆる方向にねじ曲げられる。
このようなわけで基準は存在しない。
パスカルの言う「直観」は私の言う「洞察」であり「インスピレーション」である。パスカルによれば、我々の行う推論は、我々の直感に従う。我々の推論は、我々の直観、洞察がもとになっており、その直観、洞察の正しさを証明するために推論を行うからだ。
パスカルの言う「想像」は私の言う「単なる主観」である。「直観」と「想像」は似て非なるものであると言う。どちらが洞察でどちらが主観なのかを決定する基準が必要だ。理性がそれにあたるはずとパスカルは言う。しかし理性は「あらゆる方向にねじ曲げられる」という。
たとえば何でもいいが、「猫を飼うのと犬を飼うのはどちらがいいか」「夏は山に行くべきか海に行くべきか」という論争があるとする。「猫派」を擁護する理論を理性で組み立てることも、「犬派」を擁護する理論を理性で組み立てることも、両方できる。だからパスカルは理性は「あらゆる方向にねじ曲げられる」というのである。どんな証明でもできてしまう。だから「基準は存在しない」と結論する。
私はパスカルよりもっと基準の存在を信じている。基準は理性のみならず、事実もある。理性と事実によって、それが洞察なのか主観なのかを決めることができる。たしかに理性と事実によって「猫派」を擁護することも、「犬派」を擁護することもできる。しかし、どちらの主張がより説得力があるかを競うことはできる。その説得力の大きさが基準となるはずである。説得力の大きい主張が正しいということになる。
しかし説得力を基準にして、主張の勝敗が決しても、もっと後、何百年もあとになって、より説得力のある別の主張が現れるかもしれない。現在通説とされる主張も何百年か後になって覆る可能性はある。だからパスカルが「基準は存在しない」というのは一理あるのかもしれない。
野村監督の『野村の結論』に次の言葉がある。
勝負師に最高のものとされるのが、「第六感」だ。第六感は、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感を超えるものとされ、理屈では説明できないが、ものごとの本質を鋭くつかむ心の働きと言われている。
第六感は、あてずっぽうの「ヤマ勘」とは、まったくちがうものである。わたしは、第六感とは、執念のひらめきだと考えている。相手を知り、己を知り、過去のデータを分析し、その状況を把握し、感覚が研ぎ澄まされたときに「これだ!」と出てくる。そのひらめきこそが第六感なのだ。だから、理屈では説明できないかもしれないが、根拠はある。
野村監督の言う「第六感」は私の言う「洞察」であり、「インスピレーション」である。「ヤマ勘」は私の言う「単なる主観」にあたる。
思想では、事実と論理による説得力の大きさでどれが洞察でどれが単なる主観なのかという勝敗がつくが、実に分かりにくい。どちらが説得力が大きいか判定がしづらい。その点野球は明快である。どんな新人でも、ホームランを打てば一目置かれる。どんな偉い人でも三振ばかりすれば、説得力を持てない。
長嶋茂雄氏は直観的に野球の真理を捉えた人だ。しかし言語で表現する力はなかった。「ブン!」とバットを振るのではなく、「バシッ!」と振るのだ、と言うので、選手たちもその意図が分からなかったという。松井秀喜選手だけ長嶋茂雄氏のいうことを理解したという。あるとき松井選手がスランプ続きの時、長嶋監督と電話で話し、電話の前で松井選手が素振りをした。長嶋監督は「違う!」「違う!」と言う。松井選手が素振りを続ける。長嶋監督が「それだ!」と言った。すると次の日松井選手がホームランを打ったという。
普通の人であれば、長嶋監督の言語表現を聞いても、「本当にあっているのか」と疑問を抱くかもしれない。しかし長嶋監督のバッティングに関する直観は明確な結果を出す。
■追記終。ある人が独創的な論文を書くとき、その独創性は多くの場合その洞察力に由来する。なぜなら多くの場合、論理と事実はその分野を研究する者たちに共通の要素であるからだ。しかし洞察はその人の個性であり、他の人と共有していない要素である。であるから研究者の独創性は多くの場合その洞察力に由来する。
私が大学時代教授たちと険悪になったとき、教授たちが私を鎮圧するのに苦戦したのは、私の主張がどの本にも載っていなかったからだ。彼らが得意な「図書館で調べる」が通用しなかったのだ。彼らが共有している論理と知識では対処できなかった。
彼らは囲碁や将棋でいうと大量に定石を頭に詰め込んでいる人たちだった。私はそんなに定石を知らず気にせず定石外れな手を打っていた。彼らはそれに対し定石で対応しようとしたため苦戦したのだ。
いくら頭が良くて論理力があっても、いくら知識が豊富で事実をたくさん知っていても、洞察力がなければそれまでの研究をなぞったり整理したり洗練したりする程度しかできない。独創性の正体は洞察である。
論理、事実、洞察いずれも大切だが、そのうちどれをより大切にするかは人によってバイアスが違う。
洞察を重視する奔放な人々と事実と論理を重視する確実な人には多くの場合感情的な対立がある。 プラトンとアリストテレスの対立だ。
ユングに『タイプ論』と言う本がある。人間の性格を分類した本である。 序論のさらに冒頭にハイネによるプラトンとアリストテレスに関する言葉が引用されている。 孫引きになるが引用する。
プラトンとアリストテレス!これは単に二つの体系であるにとどまらず、 むしろはるか昔からあらゆる衣装をまとって多少とも敵意をもって対立してきた 二つの異なる人間のタイプでもある。この二つのタイプはおもに中世全体を通じて、 しかし今日に至るまで戦ってきたが、この戦いこそキリスト教会史の最も重要な内容をなしている。 たとえ別の名前を名乗っていても、内容はいつもプラトンとアリストテレスの対立であった。
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