劉備と鍾会

少し話がそれるが、人心と本末に関し三国志から例をさらに挙げておく。 三国志に興味ない方は飛ばしていただければと思う。

劉備と鍾会の対比である。 二人とも巴蜀の地をおさえ中原に対抗した。 劉備は成功したが、鍾会は失敗した。 二人の決定的な違いは人心を重んじたかどうかという点だ。 劉備は人心を重んじた。

劉備は荊州と益州を支配した。 荊州に関しては劉表の子、劉琦を擁していたため大義名分はあったと言ってよい。 しかし益州への侵攻は特に大義名分がなく、 単なる侵略戦争と言われても仕方がない。 大義名分があれば正義のための戦いとなるが、 大義がなければ私欲のための侵略と言われる。

実際『近思録』の総論聖賢第十四に孔明に関し次の言葉がある。

書下し文
劉表の子の琮、まさに曹公の併せる所とならんとせしとき、取りて劉氏を興すがごときは可なり。

現代語訳
曹操が劉琮の荊州を併合しようとしたとき、荊州を奪って劉表の家を再興しようとしたのはよい。

さらに次の言葉もある。

書下し文
孔明は王佐の心有りしも道はいまだ尽くさず。 王者は天地の私心なきが如し。 一の不義を行いて天下を得るは為さず。 孔明は必ず成すあるを求めて劉璋をとりしも、 聖人は寧ろ成す無きのみ。これなすべからざるなり。

現代語訳
孔明は王者の補佐役としての心を持っていたが、 道義については不十分であった。 王者は私心のない天地と同様で、 不正を行って天下を手に入れることはしない。 孔明は何としてでも成功しようとして、 劉璋を捕らえたが、 聖人であればその際成功を捨てるであろう。 これはしてはいけなかったのだ。

『近思録』は蜀侵攻の道義性を否定している。 劉備はその点を非常に気にしていた。 『蜀書』ホウ統伝引注『九州春秋』に ホウ統が蜀を奪うよう進言したときに次の劉備の言葉がある。

現在私と水と火の関係にあるのは曹操である。 曹操が厳格にやれば私は寛大にやる。 曹操が暴力に頼れば私は仁徳に頼る。 曹操が詐謀を行えば私は誠実を行う。 いつも曹操と反対の行動をとって事は初めて成就されるのだ。 いま小事のために天下に対し信義を失うのは私のとらない態度である。

劉備は「信義を失う」という理由で蜀侵攻を拒否している。 それに対するホウ統の返答が以下である。 ホウ統は「権変の時」と述べている。 劉備達の時代は乱世であり、我々が生きている治世とは違う。 道義も重要だが臨機応変さが必要だというのだ。 「逆取順守」、 道義に逆らって軍事力で蜀を奪い、道義に従って仁徳で統治すれば十分だと述べている。 そこで劉備は重い腰を上げる。

しかし入蜀してもすぐには劉璋を攻撃せず、劉璋を捕らえるようにと言うホウ統の進言に対し、 「他国に入ったばかりで恩愛や信義はあらわれていない。それはいけない。」と述べている。 『蜀書』先主伝にも入蜀し「広く恩徳を施して人心を収攬した」とある。

劉備は明らかに人心を重視している。 だからこそ荊州制圧は非常に速く電光石火であったにもかかわらず、 蜀制圧は非常に時間がかかっている。

ただ劉備は内心は蜀がほしくてたまらなかったようである。 先主劉備が劉璋攻撃を遂に開始し連戦連勝を重ねた時の記述が『蜀書』ホウ統伝にある。

先主は成都に向かい行く先々で勝利を収めた。 フにおいて、酒を盛り音楽を鳴らして大宴会を催し、 ホウ統に向かって「今日の集まりは実に楽しい」というと、 ホウ統は「他人の国を征伐してそれを喜んでおられるとは仁者のいくさではありません。」と言った。 先主は酔っていたので腹を立て、「周の武王は紂を討伐するとき、歌を歌い踊りを舞うものがいたが、 仁者のいくさではなかったのか。君の言葉は的外れだぞ。すぐさま出ていくがよかろう。」と言った。 その結果ホウ統は後ずさりして出ていった。 先主はすぐに後悔して戻ってくるように頼んだ。 ホウ統は元の席に戻ったが、まったくそ知らぬ顔で陳謝せず、平然と飲み食いを続けた。 先主が彼に向かって「先ほどの議論では誰が間違っていたのかね。」と言うと、 ホウ統は「君臣ともに間違えておりました。」と答えた。 先主は大笑いしてはじめと同じように酒宴を楽しんだ。

最後のホウ統の機転は非常の面白い。 それはともかく蜀侵攻は本来道義にもとり、臨機応変の仕方がない処置であるにも関わらず 劉備は「楽しい」と発言してしまった。

該当箇所に関して裴松之の注がある。

劉璋を襲撃するという計画、その策略はホウ統の提起したものであるが、 しかし道義にそむいて功業を成就したもので、本来邪道である。 内心で気が咎めていたとすれば、喜びの情はおのずとしぼむもので、 そのため劉備の「楽しい」という発言を聞いて、思わず言葉が口をついて出たのである。 劉備の酒盛りは時宜を失したもので、その行為は災禍を楽しむ態度と等しい。 みずからを武王に擬して少しも恥じる様子がなかった。 これは劉備のほうに非があって、ホウ統には過失がない。 彼が「君臣ともに間違っておりました。」と言ったのは恐らく、 非難を分担しようとした発言であろう。

該当箇所の習鑿歯の注。

そもそも王者・覇者は必ず仁愛と正義を体現することを基本とし、 信頼と道理によることを根本とするのであって、そのうちのひとつでも欠けるならば、 王者覇者の道からはずれるものである。 今劉備が劉璋の領土を襲って奪い取り非常手段によって功業を成し遂げたのは、 信義に背き心情に反する行為であって、道徳・正義いずれにとっても間違いである。 功業がこれによって隆盛になったとしても大いにその背徳を傷むのが当然である。

冒頭の原文は 「夫霸王者、必體仁義以爲本」 「仁義を体するを以て本と為す」 である。昔の歴史家には「本」と「末」という概念が常識だったのが分かる。

『論語』為政第二に次の言葉がある。

書下し文
子曰く、その為す所を視、その由る所を観、その安んじる所を察すれば、 人、焉んぞ隠さんや。人、焉んぞ隠さんや。

現代語訳
先生が言われた。人の行いを見て、そのよって立つところを観て、 その安んじるところを察すれば、どうして人は隠し通せようか。 どうして隠し通せようか。

「その由る所」というのはうまく解説できないが、 その人の行動の根本的な動機であり、 そのひとのよって立つところである根本的な信念だろう。 私の解説より原文通り読んだ方が分かりやすい。

「その安んじるところ」というのは以下の通り。 我々は他人の目があると緊張感があり自分を律して正しく振舞うが、 緊張感がふと抜けた時に素が出る。 緊張感が抜け本人にとって居心地の良い状態というのがある。 それがそのひとの「安んじるところ」と言うべきだ。 何をするのがその人にとって居心地のいい状態かということ。 それが本人の素であり、それを見れば人は本心を隠せないと述べている。 私の解説より孔子の言葉である原文を読んだ方がよく分かる。

劉備の場合も「楽しい」と発言したのは、 酒宴の席で緊張感がほぐれ、つい本音が出てしまったのだろう。 本心は隠し通せないものだ。

以上、一見劉備を非難したようだが、しかしそうは言っても劉備は人心を非常に重視し考慮していた。 劉備が気にしていたのは2点ある。

ひとつめは同時代人への信義と人心だ。 同時代人の人心をつかんでこそ、根本が確立し、物事が自然とうまくいく。 劉備は功業の成功だけではなく道義や道徳においても曹操や孫権と争っているのである。

三人の道義上の評価を執筆しました。彼らを道義的に評価した記載は古今多いがまとめて考察したものは少ないので、 こちらに私が書いています。

もう一つは後世の評価である。 同時代人は権力者が間違えていると思っていても、 恐れたりもしくは遠慮して直言しない場合も多い。 しかし後世の歴史家は過去の権力者を畏れたり遠慮したりしないので、 常に公平に道義的な判断を降す。 同時代人はおべっかを使ってくれるからと言って、 董卓のように調子に乗ってやりたい放題だと、確実に後世に汚名を残す。 劉備は我々一般人とは違い他の時代の英雄たちとも道義や道徳において争っている。

確かに「楽しい」という失言はあったが、 根本たる道義や人心を重視していたからこそ彼のもとには優秀な人材が集まり、 功業を成し遂げたのである。

それに対して失敗したのが鍾会である。 鍾会は蜀制圧後、魏にそむく。 これは何の大義名分もない、単純な反逆である。 反逆後、自分の信頼する者たちを権力の座につけ、 そうでない者たちを幽閉する。 道義も人心も考えない、自分の権力のみを考えた暴挙である。 彼は結局、彼に従わない群衆に殺される。

確かに鍾会は強力な軍勢を手に入れ、 蜀という豊かな土地を我が物とし、 防衛に有利な険阻な地の利を得た。 成功すると思ったのだろう。 鍾会伝に彼の次の言葉がある。

事が成功すれば天下を手に入れることができようし、 成功しなくても退いて蜀漢を保持すれば、 間違っても劉備くらいにはなれるだろう。

軍事力や経済力、地の利は確かに重要だ。 しかしそれは「末」である。道義や人心こそ「本」である。 劉備はそれをよく認識していた。だからこそ最終的な成功を得た。 鍾会はそれを認識しなかった。 仮に一時的にうまくいっても長続きしないのである。 根本を無視し末利を追う者は確かに利益を得るかもしれない。 確かに一時的な成功を得るが最終的には失敗するのである。

鍾会はただのいくさ上手で本当の知者ではなかったのだろう。 劉備くらいにはなれるだろうと言っているが、なれるはずもなかったのである。

本末に関しもうひとつ三国志から。 荊州を孫権に奪われた劉備が激怒して孫権を征伐する場面。 『趙雲別伝』から引用する。

孫権が荊州を襲撃したので劉備は大変怒り、孫権を討とうとした。 趙雲は諫めて「国賊は曹操であって、孫権ではありません。 しかもまず魏を滅ぼせば、呉はおのずから屈服するでありましょう。 曹操は死んだとはいっても、子の曹丕は簒奪をはたらいています。 それを怒る人々の心にそいつつ、はやく関中をわがものとし、 黄河・渭水の上流を根拠として逆賊を討伐すべきです。 関東の正義の志士は必ずや食料を持ち馬に鞭打って、 官軍を歓迎するでありましょう。」

この趙雲の言葉は実は本末について述べている。 漢の復興という大義が「本」である。 それによりその大義に共感する人々の心が得られる。 人々の心が得られれば自然と大業は成る。 大業が「末」である。

「大義→人心→大業」 という本末の連鎖がある。

曹丕が漢を滅ぼしたばかりであり当時まだ漢への忠誠心を持つ人もそれなりの数いたであろう。

「曹丕は簒奪をはたらいています。それを怒る人々の心にそいつつ」魏を討伐すべきだと趙雲は述べている。 さらに「関東の正義の志士は必ずや食料を持ち馬に鞭打って、官軍を歓迎するでありましょう。」とも述べる。

趙雲の言うように魏を討伐しうまくいったかどうかは確かに分からない。 しかし漢に忠誠心を持つ人々の心に沿うことで大業を成し遂げるための「自然な力」が働く。 この「自然な力」こそが儒教の思想の本質のひとつであり、 大義が世の中にその働きを及ぼす仕方の本質である。 川の流れに従うように自然な力が作用し大業を助ける。

漢の復興を劉備が信じるのであれば、この趙雲の言葉に従うべきだっただろう。 趙雲は大義とは何かを深く理解しており、ただの武辺者とは言えない人物だったと言える。

宮川尚志氏の『諸葛孔明』にこの趙雲の意見に関し次の記載がある。

この意見は、新たに興った蜀漢のまさに進むべき国策を明確に認識したもので、 後漢を滅ぼした魏こそ、後漢を継ぐ精神によって立つ蜀漢の敵である。 ことに新たに名実ともに魏の領土となった華北を久しく放置すれば、 民心はいつとはなしに漢の故土であったことを忘れ、魏政権を正しいものと見なしてしまうだろう。 民心なおひそかに漢を思う間にこそ、堂々と実力に訴え、名分を正し漢の正統の権利を主張すべきである。

宮川尚志氏も人心の重要性を指摘している。 「民心なおひそかに漢を思う間にこそ」魏を征伐すべきと述べ、 時間がたてば人々は漢を忘れてしまうと述べて趙雲の意見を補強している。 宮川氏も「大義→人心→大業」の本末の連鎖を深く認識していたと言うべきであろう。

つづき天と性善


■上部の画像は葛飾北斎
「ホトトギス聞く遊君」。

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