『大学』における「本」と「末」

いろいろ述べてきたが要は物事には順番があるという点を言いたかったのだ。 これは『大学』という儒教の経典に記載がある。

書下し文
物に本末あり。事に終始あり。先後するところを知れば、すなわち道に近し。

現代語訳
物には根本と末端があり、事柄には始めと終わりがある。どれが先でどれが後かを知れば、道を知るに近い。

①体の使い方が悪い→②猫背になる→③無駄な力が入る→④肩こりになる→⑤頭痛がする では①に近いほど「本」=「根本」に近く⑤に近いほど「末」=「末端」に近い。

『近思録』に次の記載がある。

書下し文
凡そ物には本末有るも、本末を分かちて両段と為すべからず。

現代語訳
全て物事には本と末があるが、本と末をはっきりと二つに分けてはいけない。

ここからここまでが本でここからここまでが末だと分けてはいけないという。 現代の言葉でいうと本と末は相対概念なのである。

②の「猫背になる」というのは①の「体の使い方が悪い」の結果であるから②「猫背になる」は①「体の使い方が悪い」に対しては末である。①が②に対して本である。 しかし②「猫背になる」は③「無駄な力が入る」に対しては本である。無駄な力は猫背になるから入るのだ。 このように本と末は相対概念なのである。

①良い技術力がある→②良い商品ができる→③営業がうまくいく→④商品が売れる→⑤利益が上がる の例でいくと、③の営業は②の良い商品に対しては末である。良い商品があってこそ営業がうまくいくからである。しかし③の営業は④の商品が売れる、に対しては本である。営業がうまくいってこそ商品が売れるからだ。やはり本末は相対概念である。

さらに『大学』から引用する。

書下し文
その本乱れて末治まる者はあらず。その厚かるべき者薄くして、その薄かるべき者厚きは、未だこれ有らざるなり。此れを本を知ると謂い、此れを知の至まりと謂うなり。

現代語訳
根本がでたらめでありながら、末端が治まる場合はない。努力すべき根本が手薄でありながら、手薄でもよい末節が充実した例はかつてない。これを根本を知ると言い、これを知のきわみと言う。

「背中を伸ばしなさい」と小さいころ我々が言われたのは②の猫背を矯正しようとしているのだが、根本である①の体の使い方を良くせずに、末端である②猫背を矯正している。だから一時的な効果しかないのである。「努力すべき根本が手薄でありながら、手薄でもよい末節が充実した例はかつてない。」というのはその点を指している。

②の良い商品がないのに③の営業を頑張っても基本的にはうまくいかない。

根本が充実すると末端は自然と正しくなり持続的に正しくなるというのである。

「物には根本と末端があり、事柄には始めと終わりがある。どれが先でどれが後かを知れば、道を知るに近い。」と『大学』で言っているが、「道を知るに近い」とはどういうことか。

私の考えでは「道を知る」というのは『易経』が読めるということである。表面的な意味ではなく『易経』の本当の意味が理解できるということだ。『易経』を読めれば千変万化する現象や状況に対し適切な対応ができると言われる。私は『易経』が読めないから道を知る者ではない。

ただそこまでいかなくても凡人でも「どれが先でどれが後か」くらいは分かる場合もある。それが分かればある程度はいろんな変化に対応できるため「道を知るに近い」のだと『大学』は述べている。

続きは儒教における「本」と「末」1をご覧ください。


■上部の画像は葛飾北斎
「女三ノ宮」。

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