儒教における「本」と「末」1

堺屋太一氏の『日本を創った12人』という著作の池田勇人の章に「工業先導性の理論」という考え方が紹介されている。引用する。

地域を発展させるためには、まず大規模工場を誘致しなければならない。大規模工場以外の小売りやサービス業は、付随的な産業である。製造業の工場を誘致すれば、そこに勤める人たちが買い物をするから商店街もうるおい、学校も増え、病院も盛んになり、レストランやホテルも流行る、というのである。 池田内閣の頃には、知事も市長も、自分の町をよくするためには借金をしてでも工業団地を造り、工業用水を引き、産業用道路を造り、港湾を整備するしかないと信じていた。工業誘致のために重化学工業の立地に適した用地とインフラを造るのに資金を惜しまず投下した。
この工業先導性理論は、歴史的事実としても理論的にも全く間違っていた。全世界の都市のほとんどは、第三次産業の拠点として興ったものだ。工場から興った町もないではないが、数は少なく、規模も小さい。 東京、金沢、福岡、仙台などは、まず城下町として発達した。大阪や新潟は商業、港湾都市として出発した。そこに人口が集まり流通サービスが盛んになり、そのあとから工場が来たのである。

「工業先導性の理論」は1960年代の考えなので現代から見るとやや時代遅れの考えかもしれない。とはいっても堺屋太一氏の「全く間違っていた」という評価は疑問だ。確かに例に挙げられている東京、金沢、福岡、仙台、大阪、新潟などの日本の都市は工業からはじまった都市ではないが工場を誘致しなかったら現在ほど発展しなかっただろうし衰退したかもしれない。大企業の城下町都市も日本には多い。少なくとも1960年代当時は当てはまっていた考え方ではないかと思う。

もっともこの理論が間違えていたとしても、問題ではない。いずれにしても企業が誘致され多くの雇用を生み出すことが地域の発展にとって重要だという点は否定できないからだ。

この理論の要点は「大規模雇用の創出」が「本」であるという点。小売り、サービス業、病院、レストランは「末」である。雇用を創出すればあとは自然と他の産業も発達するという理論。それなりに説得力がある。

本と末という概念は儒教では非常に重要な概念である。 本と末という言葉を使っていなくても、この思想が応用されている文章は儒教では至る所に現れる。

『孟子』「告子章句上」から引用する。

孟子が言われた。「この世には天爵というものがあり、人爵というものがある。仁義忠信の四徳や善を行うことを楽しんで倦まない実践力は天が与えたものであるからこれがつまり天の爵位すなわち天爵というものである。公、卿、大夫などという位階は、 人から与えられる爵位だから、人爵というものである。昔の人は自分に与えられた天爵をさらに磨いてよく修め有徳の君子となり、その結果人爵がそれに伴ってついてきたのである。ところが今の人たちは人爵にありつく手段として天爵を修める。これはそもそも間違っているが、いったん人爵にありつくと、天爵の方はもはや捨ててかえりみない。実に考え違いも甚だしい。そんな心がけでは、しまいにはせっかく手に入れた人爵までもきっと失ってしまうに違いない。
『孟子』「告子章句上」

孟子は天爵を修めて人爵がついてくると言う。天爵が「本」で人爵が「末」なのである。孟子は「今の人たちは人爵にありつく手段として天爵を修める」と言う。「本」と「末」が逆になっている。「本末転倒」というわけである。 さらに「いったん人爵にありつくと、天爵の方はもはや捨ててかえりみない。」「しまいにはせっかく手に入れた人爵までもきっと失ってしまうに違いない。」 と言う。これは上記『大学』の「その本乱れて末治まる者はあらず」に対応する。「本」たる天爵を捨てれば「末」たる人爵もいずれ失うと言う意味である。

『孟子』離婁章句下に次の言葉がある。

水源のある水は、こんこんとして昼夜となく休みなく流れて海にたどり着く。「本」があるものは全てこのように決して尽きることがない。もしも「本」がなかったら、7月に雨が降り続くと田んぼの溝はたちまちいっぱいになるが、いざ降りやめばたちどころに涸れはててしまうようなものだ。
『孟子』離婁章句下

水源が根本で田畑を潤すのが末端である。

①良い技術力がある→②良い商品ができる→③営業がうまくいく→④商品が売れる→⑤利益が上がる。というビジネスの例でいえば、①技術力があるというのが根本であり技術革新を続けていけば売り上げは継続的に上がってくるというわけだ。

仮にひとつの事業が行き詰っても、技術革新が次から次に生じるのであれば、決して尽きることがない。水源のある川が水がいくら流れてもあとからあとから尽き果てないようなものである。技術力やアイデアなどが無く、ただ巧みな宣伝の方法だったり、お客を丸め込むような営業だけで売り上げを伸ばすのは、一時的には効果があったとしても7月に降り続いた雨のように、すぐにかれはててしまうというのだ。根本たる水源がないからである。土地の売却や株の売却による企業の一時的な収入ももちろん重要ではあっても根本のない収入である。

我々一般人の場合で言うと、ちゃんとした仕事をもって生活している人は水源がある水と同じである。自分の趣味のために多少金を使っても、毎月それなりの収入が入ってくる。それに対して宝くじで1000万円当たった人は水源のない水と同じである。一時的には潤っても「たちどころに涸れはててしまう」のである。

『論語』学而第一に次の言葉がある。

書下し文 
君子は本を務む。本立ちて道生ず。

現代語訳 
君子は根本を充実させる。根本が定まるとその先の道は自然と開ける。

君子は根本を重視するという。根本が充実すれば、自然と末端も備わってくる。 根本があると①「自然に」②「持続的に」末端が備わってくるという効果が生じる。

『菜根譚』に次の言葉がある。

書下し文
富貴名誉の道徳より来るものは、山林中の花の如し。自ずから舒徐繁衍す。 功業より来るものは、盆檻中の花の如し。則ち遷徒廃興あり。 もし権力を以て得るものは、瓶鉢中の花の如し。その根植えざれば、その萎むこと立ちて待つべし。

現代語訳
富や地位、名誉のうち道徳によって得たものは、野山に咲く花のようである。 おのずから花が開き、自然に周りに広がっていく。 事業の功績によって得たものは、盆栽の花のようである。移し替えられたり、捨てられたりする。 権力によって強引に得たものは、花瓶に差した生け花のようである。 根がないのであるから萎むのは立ちどころの間である。

これも本と末について述べている。道徳が富貴や名誉を生じる根本である、というのだ。富貴や名誉は道徳に対して末端となる。道徳があれば金や名誉は自然についてくるし、野山に咲く花のようにおのずとひとりでに広がっていく。

功業によって得た場合もある。確かに功業も富貴や名誉を生じる根本ではある。しかし時代の移り変わりによって、ある会社の事業は不要になったり、一時的な名声を得ても時代とともに忘れられる人もいる。盆栽の花と同じで、移し替えれれたり捨てられたりするのである。

権力で強引に富貴と名誉を得た場合。これは根本がないため、根のない生け花と同じで、枯れてしまうのは時間の問題である。

続きは儒教における「本」と「末」2をご覧ください。


■上部の画像は葛飾北斎
「女三ノ宮」。

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