思想の分業

それではボトルネックを補うにはどのような人材が必要か。結論から言うと啓蒙思想家である。一般向けに思想を伝える人。誰か啓蒙思想家が中国思想を現代的に分かりやすく伝えることができれば現代日本のいろんな分野のボトルネックを解消できる可能性がある。

ビジネスでいうとビジネスマンが直接中国古典を読むというのも一つの方法だ。私は読んでほしいと思う。しかしそれだとかなり時間もかかり大変でもある。場合によってはもっとビジネス自体や他の事に時間を費やしたほうがいいかもしれない。誰か啓蒙思想家が分かりやすく書いてそれをみんなで読んだ方が思想家とビジネスマンの分業になり効率的な可能性もある。幕末も思想家と実践家の分業があった。

現代の分業は次のようになる。まず中国思想の専門家。この専門家から啓蒙思想家が思想を学ぶ。そして啓蒙思想家が実践家に古典のレベルを落とさず現代的に分かりやすく伝える。「中国思想の専門家」「啓蒙思想家」「実践家」の三者が存在する。

「中国思想の専門家」はガチガチの思想家でよい。「ガチガチの思想は良くない。ゆるやかな体系が必要。」と先ほど述べた。しかし〇×式で単純に考えてはいけない。中国思想の専門家はガチガチの思想家でよい。他の思想を排斥するような人は良くないが、中国思想を深く理解するためには徹底的に学ぶ必要があるからガチの思想家でいい。啓蒙思想家は中国思想の専門家から学ぶ。啓蒙思想家はガチガチだとあまりよくない。実践家はガチガチの思想家だとダメだ。実践家はゆるやかな体系を持っていなくてはならない。実践家の孔明がそうだったように。ガチガチの思想家になると思想を現実に応用できないと本能的に孔明は知っていたのだろう。言いたいのは単純な〇×式ではなくこのようにもっと立体的に考えるべき。

『老子』第十五章の次の言葉を再度引用する。

書下し文
此の道を保つ者は盈つるを欲せず。それ唯だ盈たず、故に能く敝れば新たに成る。

現代語訳
道を保つ者は完成させようとしない。完成させないから、ひとたび破れてもまた新しく生まれ変わる。

これを読むと完成がダメで未完成が良いと読める。しかしそれは〇×式だ。そうではない。中国思想の専門家は完成していてよいのだ。完成を目指すべき。能の演舞者は能の芸の完成を目指すべきである。老子の言葉は「完成しすぎると変化に対応できない」と言う意味だが、能の演舞者は変化に対応するより日本の伝統を守り続ける義務がある。だから完成していていいのだ。中国思想の専門家も完成していていい。変化に対応するより伝統を守るのが目的だからだ。しかし啓蒙思想家や実践家は完成しすぎるとうまくいかない可能性がある。実際にはケースバイケースとしか言いようがない。老子の言葉は参考にしつつもそれぞれ自分自身に正直になり信じる道を進むべきだ。

中国思想の専門家と啓蒙思想家と実践家はそれぞれ違うことをしているようだが同じ「道」に従っている。『孟子』離婁章句下に次の文章がある。現代語訳だけ掲載する。

むかし禹や稷は上には明君堯・舜をいだく泰平の世ではあったが、水を治め農事を教える職務に忙しく、三度も自分の家の門を通り過ぎたが、一度も家の中に入る暇とてなかった。孔子はこの二人を賢者として称賛された。孔子の門人の顔回は春秋の乱世に出会い、うす汚くて狭い路地裏に住んで、日にわずか一椀の飯と一瓢の飲み物という質素な暮らし、凡人ならとても耐えられない貧乏生活なのに、顔回は相変わらず平気で聖人の道を楽しんでいた。孔子はこれを賢人として称賛された。これについて孟子が批評して言われた。「禹と稷と顔回の三人は一見行いの形は違っても、その心は一つで同じ道を履んでいる。そもそも禹は職務柄もし天下に一人でも溺れる者があれば、自分が溺れさせたかのように責任を感じ、稷は天下に一人でも飢え死にする者があれば、自分が飢えさせたかのように責任を感じた。だからこそあのように忙しく東奔西走したのである。禹も稷も顔回ももしお互いに立場を換えてみればみな同じようなことをしたに違いない。例えば今、同じ屋根の下に住む者が喧嘩を始めたとしたら、乱れ髪に冠のひもを結びながら大急ぎで仲裁してもいい。これは禹、稷の場合である。だがもし同じ村の中で喧嘩が始まった時、やはり乱れ髪に冠のひもをろくに結ばずに大急ぎで飛び出していって仲裁したら、それは大変な心得違いである。そんな時には、戸を閉めて怪我せぬよう引っ込んでいてもいい。これは顔回の場合である。」

人はそれぞれ性格も違い興味関心も違う。それぞれの個性に適した「中」=「中庸」がある。だから中国思想の専門家と啓蒙思想家と実践家もそれぞれ自分の個性に適した「中」を守る必要がある。それぞれ違うことをしているようだが個性を取り換えれば同じことをするだろう。同じ道に従っているのだ。実際この三者がうまく連携すると大きな力を発揮する。三者どれも欠けてはいけない。三者の内どれが優れているかという問題ではなく、上手く連携できるかが問題である。

私は啓蒙思想家を目指すつもりだが中国思想の専門家から日々学んでいる。ほとんどの場合は本から学ぶので昭和初期の学者たちから学んでいることになる。

現代日本では良質な啓蒙思想家が足りていない。これがボトルネック。中国思想を古典のレベルを落とさず分かりやすく現代的に伝える人。もっとも「古典のレベルを落とさず分かりやすく現代的に伝える」というのはかなり難しいので足りてないのは当然と言うべきか。

思想が大切とは言っても、難解なハイレベルな思想である新たな古典を追加するのはいけない。いや言い間違えた。決していけなくはない。そのような人がいれば私は心からの最敬礼を惜しまない。それは本心である。しかしそれは少なくとも現代におけるボトルネックではない。恐らく難解でハイレベルな思想が追加されても時代は動かないだろう。我々大衆の中で生きた分かりやすい思想が必要だからだ。

100の能力がある人は100の仕事をするというのが常識かもしれない。しかしそうとは限らない。100の能力の人が10000の仕事をするときもあるし、逆にマイナス100の仕事をする時もある。少し考えてみれば当然だ。

100の能力の人がIT産業に就職したとする。100の仕事をする。その人がタバコ産業に就職したとする。社会に害をもたらすのでマイナス100の仕事となる。要は能力だけではなくポジショニングを考慮に入れなくてはならない。

サッカーに詳しくはないが、ドリブル力、キープ力、トラップ力、パスの正確さ、パスコースが見える能力、決定力、ディフェンス力と色々能力があるが、それらの能力だけが大事ではない。同じ能力でも「どこにいるか」が大事のはずだ。ポジショニングだ。どこにポジショニングするかが大事だろう。サッカー以外でもポジショニングは大切だ。

100の能力でも10000の仕事をする場合がある。ボトルネックにその努力を集中した場合である。時代のボトルネックを直撃すると100の能力の人でも10000の仕事ができる。ポジショニングの大切さだ。

例えば坂本龍馬。彼は脱藩浪士であり、藩の面子や利害に捉われずフリーな立場で行動できた。そして当時の日本を見渡して最も重要なボトルネックを直撃した。薩長同盟である。これで日本史は動いた。ボトルネックを直撃するにはぼんやりとでも全体像が見えていないといけない。フリーな立場である竜馬にはそれができた。『論語』為政篇から再度引用する。

書下し文
子曰く、君子器ならず。

現代語訳
孔子が仰った。君子は一定の形を持たない。

『老子』第八章から再度引用する。

書下し文
上善は水の如し。道に近し。

現代語訳
最上の善は水のようだ。水は道に近い。

この二つ言葉を読むたびに竜馬を思い出す。彼は無形の水のように柔軟に動き時代のボトルネックを直撃したのだ。

人格の大きさでは西郷のほうが偉大だったかもしれない。政治家としての有能さでは大久保のほうが有能だったかもしれない。しかし竜馬はポジショニングに優れていた。西郷や大久保に勝るとも劣らない仕事をした。100の能力で10000の仕事をした。10000の仕事をするのに10000の能力はいらない。

ボトルネックを直撃するには全体が見えていないといけない。ぼんやりとでもいいから見えている必要がある。全体を見ないとどこがボトルネックなのかそもそも分からないはずである。全体を見るにはフリーな立場である必要がある。竜馬のように。 限られた専門分野がはっきり見えてもそれでは全体のボトルネックがどこかは分からないはずだ。

新しい思想をつくるという場合、多くの人は大学の思想系の学科の教授のような地位ある人に期待をするだろう。もちろんその期待は間違えてはいない。しかし場合によっては地位ある人より地位のないフリーな立場の人が有利な場合もある。大学の教授であれば科学、哲学、経済学など分野の違いに捉われる可能性がある。同じ哲学の中でも英米系、独仏系、ギリシア系、中国系などさらに細かい学派に捉われる。フリーな立場を保つのは不可能ではないが難しい。なぜなら学派間で理論的な対立、感情的な対立がありどうしても学派に捉われるからだ。竜馬が脱藩浪士で藩の利害に捉われなかったように、地位を持たない思想家のほうが学派に捉われず有利な可能性もある。

これはわざわざ言わなくてもいいと思うが、竜馬のことを語っているが自分自身を竜馬になぞらえるつもりは一切ない。竜馬にあこがれるので一万分の一ほど彼に見習いたいという気持ちは確かにある。それでボトルネック直撃を夢とするのだが、夢で終わりそうではある。

日本のことをずっと書いてきたが一応世界のことも少し考えてみたので書いておく。現代の世界で生じている問題もその何割かは根本をたどれば思想にたどり着く。

現代の主流の思想は人権・民主主義・国際法をかかげる西洋の理念である。それは正しい。しかし西洋の一部の人は東洋の伝統思想はすべて破壊してもいいと考えている。東洋はそれぞれの伝統思想を大切にしているが西洋の思想を取り入れなくていいと考える人も多い。また逆に西洋に流れて東洋の伝統を放棄していいと考える人もいる。この思想の問題が現代の問題の根本原因になっている場合が多い。

東洋の思想は中国、インド、イスラムが三大思想であり、これらを理解し西洋思想を理解すれば現代という時代の本質がある程度見えてくるはずである。

もちろん現代で重要なのは思想だけではない。科学技術の発展も重要である。しかし科学技術が発展するのは科学技術内部の問題であるが、科学技術をどう使うかというのは思想の問題である。科学技術の発展は重要だが、発展した科学技術をどう使うかという問題のほうがそれ以上に重要と言って良い。もの凄いスピードで進化する科学技術に対し、科学技術をどう使うかという思想のほうはあまり進歩していない。要は思想が足りないのだ。これがボトルネック。やはり現代の問題は思想の不足が根本になっている。

最後にそれではお前に何ができるのかという質問に答えて終わりたい。まず世界のことに関しては私に何ができるとも思っていない。もちろん世界の思想はこれからも学び続けるしその中で何か見えてくるものはあるだろう。しかし特に何か貢献できるとは思っていない。

日本のことに関しては少しくらいは力になれればと思っている。が、実際にはまだ難しい。中国思想について色々書いているが、まだわかりやすく書けている自信はない。恐らく中国思想をすでに知っている人には分かるように書けているが中国思想を知らない人には十分に伝わっていないと思う。

それと西洋思想を合成できていない点が致命的だ。これから西洋思想を学ぼうと思っているが、どこまで合成できるかは現時点では不明だ。それがうまくいけば何かしら貢献できる可能性があるが、それに失敗すれば夢で終わるだろう。

時々他の人から指摘を受けることがある。本を読んでばかりいないでもっと行動しなさいとか、逆に中国思想を読むならもっと漢文を究めなさいとか。それらの助言は一理も二理もある。実際いろいろ気づかせてくれる貴重な指摘ではある。しかし私がそれに従うわけではない。確かに行動することで見えてくる世界もあるだろう。もっと漢文を究めることで見えてくる世界もある。

しかし私は行動家になりたいわけでも中国思想を窮めたいわけでもない。目的はあくまで現代日本のボトルネックを直撃することである。それに必要な範囲で漢文をさらに勉強したりすることはあるが、漢文を究めるのは目的ではない。目的と手段がいつの間にか入れ替わったりしないように気を付けている。

続きはなぜビジネスかをご覧ください。


■上部の画像は葛飾北斎

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