儒教における「本」と「末」2

『大学』から引用する。

書下し文
君子は先ず徳を慎む。徳あれば此に人あり、人あれば此に土あり、土あれば此に財あり、財あれば此に用あり。徳は本なり、財は末なり。

現代語訳
君子はまず徳を充実させる。徳があれば自然に人が帰服し、人が帰服すれば領地が得られる。領地が得られれば財物が豊かになり、財物が豊かになれば事業が起こる。徳が根本であり、財物は末端である。

「仁徳→人材→土地→財力→事業」という本と末の連鎖がある。

『三国志』の曹操を例にとる。彼は英雄であり、当時の中国の中心地域を治め、乱世を部分的に終息させ平和をもたらした人物である。 この人には人を引き付ける仁徳があった。それを慕って文武の人材が非常に多く集まった。その結果領土は拡大し、税収は上がり、大事業が興った。

「仁徳→人材→土地→財力→事業」という流れは、あたかも曹操の人生を描写しているかのようである。

『三国志』の董卓を例にとる。董卓は群雄のひとりであり、非常に大きな権力を持っていた。非常に横暴で残虐な人物であった。 しかし良心のかけらくらいは持っていたようで、有能な人材の登用を積極的に行った。しかし面白いのは、登用した人材にことごとく裏切られてしまったのである。登用した人材はみな反董卓連合に加入する。「仁徳→人材→土地→財力→事業」の連鎖のうち根本たる「仁徳」を持たなかったため、次の「人材」の登用を行ってもうまくいかないのである。

せっかく少しはあった良心によって人材を登用したのに、彼らにことごとく裏切られてしまう董卓主演の喜悲劇は、事実なだけに下手な小説より面白い。

『三国志』では数多くの群雄たちが登場するが、最後まで生き延びた国は魏呉蜀の三国である。いずれも仁徳を持つ者がトップにいたのであり、董卓や呂布、袁術など仁徳なき者は一時的に栄えることはあっても最終的な名声は得られなかったのである。

同じく『大学』から引用する。

書下し文 古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は先ずその国を治む。その国を治めんと欲する者は先ずその家を斉う。その家を斉えんと欲する者は先ずその身を修む。その身を修めんと欲する者は先ずその心を正す。その心を正さんと欲する者は先ずその意を誠にす。
<<中略>>
意誠にして後、心正し。心正しくして後、身修まる。身修まりて後、家斉う。家斉いて後、国治まる。国治まりて後、天下平らかなり。

現代語訳
いにしえの時代に自らの聖人の徳を天下に明らかにしようとした人は、まず自分の国を治めた。自分の国を治めようとしたひとは、まず自分の家を和合させた。自分の家を和合させようとした人は、わが身を修めた。わが身を修めようとした人は、まず自分の心を正しくした。自分の心を正しくしようとした人は、自分の意を誠にした。
<<中略>>
意が誠になってこそはじめて心が正しくなる。心が正しくなってこそ、はじめてその身が修まる。その身がおさまってこそはじめて家が和合する。家が和合してはじめて国が治まる。国が治まってはじめて天下が平らかになる。

「誠意→正心→修身→家斉→治国→平天下」の本と末の連鎖がある。

本当は「誠意」の前に「格物致知」という重要な思想があるのだが、個人的に説明がまだうまくできないので省略した。「修身」とは自分の徳を磨くことである。そして儒教の修業は「誠意」=「意を誠にす」から始まると言ってもいい。「誠意」の意味について『大学』から引用する。

書下し文
その意を誠にすとは、自ら欺く無きなり。

現代語訳
その意を誠にするというのは、自分に嘘をつかないことである。

「誠意」というと他人に誠実にすることだと思われるし、もちろんそれも含むが、それ以上に自分に嘘をつかないことという意味である。これがあってはじめて「正意」=心が正しくなり、「修身」=自分を磨くことが完成する。

本と末の思想は儒教における通奏低音である。この思想は儒教の経典のいたるところに出てくる。そしてほとんどの場合、道徳が根本で名誉や地位、財産は末端である、と主張する。私なんかからすると「またそのパターン?」と言いたくなるが、確かにその例が一番重要である。しかしそれだけだとどうかとも思うので、冒頭でいくつか例を挙げてみた。

たまに中国の昔の歴史書に出てくる話で次の例がある。

たき火の上で鍋で湯沸かしをする例である。たき火をしてその上に水の入った鍋を置く。お湯が沸く。このお湯の温度を下げるにはどうしたらいいかという問題である。

うちわであおいでも駄目である。それは末端的な対策である。根本を抑える必要がある。当然たき火を消すのが重要である。うちわであおぐのは末端を重視しているのであり、たき火を消すのは根本を重視しているというわけである。たき火を消せばあとは放っておいても温度は下がる。

耶律楚材の言葉に「一利を興すは一害を除くに如かず。」という言葉がある。恐らくうちわであおぐのが「一利を興す」であり、たき火を消すのが「一害を除く」という意味ではないかと推測している。

「これからの時代はカルピスの原液を創った人が勝つ。」と言ったひとがいる。ある人はそれを「水で薄めて飲み物を作りたい」と言って協力を求めてくる。別の人は「これをアイスクリームにかけて使いたい」と言う。さらに別の人は「これをお菓子つくりに使いたい」と言い。別の人は「これでカクテルを作りたい」と言い協力を求めてくる。要はカルピスの原液が根本であり、根本を抑えた人が勝つというのである。

サンスクリット語を勉強しているが、例文で次の言葉があった。
"mule hate hatam sarvam"
「根本が殺されて全てが殺された。」
これも同様の意味である。

続きは儒教の偽凡性をご覧ください。


■上部の画像は葛飾北斎
「女三ノ宮」。

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