物に在るを理となす

もうひとつ例を挙げる。 むかし通っていた学校の同級生に面白い学生がいた。A君とする。彼が在学中にした就職活動の感想を語ってくれた。我々は普通に考えると第一志望の会社が一番入りづらいと考えてしまいがちだが、A君に言わせると第一志望が一番受かりやすいのだそうだ。

まず第一志望の会社は一番情熱をもって就職活動に臨める。当然非常に興味を持って深くその会社のことを研究する。当然その会社が好きだと言う熱意も面接官に自然と伝わる。そしてそれだけ好きになったということは、性格的な相性も非常に良く、能力的な適性も合っているはずである。自分のやりたいことと会社でできる仕事が一致する可能性が高い。だから第一志望の会社が一番受かりやすいというのだ。給料や知名度で会社を選んだ場合は、確かに第一志望の会社は入りづらいかもしれないが、会社の中身と自分がしたいことで選ぶなら第一志望の会社がもっとも受かりやすい。A君はそう言って、第一志望以外の会社は全て落ちるという荒業をやって卒業していった。

彼は一見当たり前のことを言っている。「第一志望の会社は非常に深く研究する。」というのは自然な結論であり、当たり前である。「熱意も自然と伝わる」というのも当たり前だ。そのような当たり前を積み重ねて「第一志望の会社が一番受かりやすい」という必ずしも当たり前ではない結論を導き出している。

「熱意→興味→深い企業研究→熱意が伝わる→受かる」

これも「本」と「末」の連鎖になっているのが分かるだろうか。本末の連鎖は、物事に内在する自然の道理を表している。最初にその会社に対する熱意がある。熱意があると興味が湧く。興味があると深く企業研究をする。深い企業研究をしていると面接官にその研究の深さと熱意が確実に伝わる。伝われば受かりやすくなる。

すべて当たり前である。これは物事に内在する自然の道理であり、これを充分に理解して物事を行えば物事は自然とうまくいく。自然の道理、自然の力を利用しているからである。

「物に本末あり。事に終始あり。先後するところを知れば、すなわち道に近し。」という『大学』の言葉をA君は本能的に理解していたのである。

彼の就職活動は特別なことは何一つしていない。ただ深い興味をもって詳細に企業研究をして、自己分析をして、面接でその結果を熱意をもって伝えただけである。 いかに「自然に」「無理なく」「当たり前に」「正攻法で」第一志望の会社に受かるか。就職活動の王道のような方法を実践していたのである。これが儒教の考えにかなり近いのである。

『近思録』道体篇に次の言葉がある。

書下し文
物に在るを理となし、物に処するを義となす。

現代語訳
物に存在するのが理であり、理に従って対処するのが義である。

A君の例で言うと「熱意→興味→深い企業研究→熱意伝わる→受かる」の本末の連鎖が「理」=「自然の道理」である。物に内在する自然の道理である。「物に在るを理となす」はこれを指す。そしてその道理を利用してA君が行った就職活動が「義」である。新釈漢文大系の解説を引用すると「義」というのは「事の宜しきに適う」という意味である。物に存在する理に従ってその物を処置していくことである。義というのは「正しい」という意味である。「物に処するを義となす」。A君の就職活動が「義」なのである。

A君とは別の同級生がいて、非常に対照的な就職活動をしていた人がいた。B君とする。B君はある意味非常に賢く嘘をつくのがうまい。面接でうそをつくと百戦錬磨の面接官にばれてしまうのがほとんどのケースであるが、彼はばれずに嘘をつきとおし、ほとんどの会社で内定を得ていた。「たくさん嘘ついてやったぜ!」と豪語していた。確かに希望通りの会社に就職できたし、ぱっと見た感じ知恵を働かせているように見える。しかしこのような人は一時的にはうまくいっても最終的に幸福な正しい人生を送れるとは考えづらい。

『近思録』致知篇に次の言葉がある。

書下し文
ただ理を照らすこと明らかなれば、自然に理に従うを楽しむ。 理に従いて行うは、これ理に順うことなれば、もとより難からず。 ただ人知らず、旋として安排著するがために、すなわち難しと言うなり。

現代語訳
ただ道理がはっきり分かりさえすれば、道理に従うのが自然に楽しくなる。 道理に従って行うのは、自然な道理に従うのであるから、本来難しくない。 道理が分からずいきなり勝手なことをするので、難しいと考えてしまう。

A君の場合、彼は「熱意→興味→深い企業研究→熱意伝わる→受かる」という自然の道理をよく認識していた。そして企業研究など就職活動を心から楽しんでいた。「ただ理を照らすこと明らかなれば、自然に理に従うを楽しむ」=「道理がはっきり分かりさえすれば、道理に従うのが自然に楽しくなる」というのは彼の就職活動を指しているかのようである。そして彼は何か特別な難しいことをしていたわけではない。確かに彼は賢かったので、彼ほど深い企業研究は誰にでもできるわけではなかったかもしれないが、難しいことはしていないのである。「理に従いて行うは、これ理に順うことなれば、もとより難からず。」=「道理に従って行うのは、自然な道理に従うのであるから、本来難しくない。」と言うのも確かに彼に当てはまっていたのである。

それに対してB君は面接官に対して嘘をつくという難しいことをしている。普通は嘘がばれてしまうのであるが、B君はある意味才能があり嘘をつきとおした。自然の道理を無視して行うとB君のような難しいことをするはめになるのである。「ただ人知らず、旋として安排著するがために、すなわち難しと言うなり。」=「道理が分からずいきなり勝手なことをするので、難しいと考えてしまう。」という言葉はこれを指している。

『近思録』出処偏に次の言葉がある。

書下し文
 賢者は理に順いて安らかに行う

現代語訳
 賢者は道理に従い心安らかに行動する

A君は道理に従い正しい就職活動をするので、心が安らかであった。それに対してB君の就職活動は嘘をつくので、ばれないかどうか常にハラハラする必要があったのである。

儒教は「自然に」「無理なく」「当たり前に」「正攻法で」物事を行う。であるから儒教的な聖人が大事業を成し遂げた場合、人々はそれは自然と行われたのだと考える可能性がある。

続きは中国思想における「本」と「末」をご覧ください。


■上部の画像は葛飾北斎
「ホトトギス聞く遊君」。

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