思想と言うボトルネック

日本は長いこと停滞している。バブル崩壊から30年ほど停滞している。原因は何だろうか。本末分析で考えていく。何が根本の原因になっているか。どこがボトルネックか。

以前は日本は製造業で栄えていた。現在は伝統的製造業は新興国に持っていかれている。当然日本は伝統的製造業以外に移行しなくてはいけない。さらに高技術の分野もしくは戦略性が必要な分野もしくは技術と戦略性が掛け合わされた分野である。

しかし日本人はモノづくりは得意だが戦略が苦手だと言われる。原因は恐らく思想が不足しているからだ。科学技術が進歩するのは科学技術の問題である。これに関しては日本人もそれなりに能力があると言われる。しかし技術をどう使うかは科学技術の問題と言うより思想の問題である。ビジネスもいかに技術を使うかという問題でもある。思想が足りないため戦略が苦手なのだ。恐らくこれが停滞を招いている原因のひとつである。現代の日本が無思想である点が根本原因のひとつと思われる。

それではどのような思想が必要か。私は①地に足がついて②分かりやすく③普遍的で④合理的で⑤本質をついた思想が必要だと思う。

①地に足がついて②分かりやすいの反対の思想、高遠で難解な思想はどうだろうか。私はそのような思想を否定する気持ちは全くない。それどころかそれらも偉大な人類の遺産だと考える。しかしビジネスに応用するとなると大学の哲学科で学ぶ高遠な思想は効果が無い。高遠な思想に関しては専門家でさえ十分に理解できない場合がある。そのような理解できない思想をビジネスに応用できるだろうか。

それでは細かい知識を詰め込んだ思想はどうだろうか。これもビジネスには応用できない。細かい知識は本質的ではないからだ。人間の活動領域はたくさんある。科学、思想、ビジネス、芸術、宗教、法律・・・。それぞれの分野はその細かい知識を見るとそれぞれで全く違う。例えば物理学と中国思想は全く別物だ。しかしその本質は本質的になるほど共通の度合いが増えていく。ひとつの分野の本質は他の分野に意外と応用可能だ。海外の最先端の物理学者に『老子』を読む人がいるという。一事に通じることは万事に通じるという。大げさだが一理ある。

細かい知識を詰め込んだ思想は学問としては大事だ。否定するつもりはない。しかし本質的ではないため、他の領域に応用できない。しかし本質的な思想は分かりやすく解説されれば他分野に応用できる可能性がある。

現代のビジネスを構成する制度や技術は西洋由来でありこれからも西洋由来の考え方や技術が発展していく。我々に必要なのは西洋の考えをうまく取り入れることである。そして発展させることである。

日本は表面的に西洋化されている。だから表面的に見れば西洋の考え方のほうが分かりやすい。しかし表面的にしか西洋化されていない。だから西洋の考え方を導入しても表面的にしか理解できない。たまに深く理解できる人がいるがこれは例外。

これが日本の多くの分野で問題になっている。ビジネスだけではない。日本人は頭が悪いわけではない。知識が足りないのでも無い。いろんな分野において日本人に決定的に足りないのは西洋の考え方を表面的にしか理解できない点である。深さと思想が足りない。心当たりのある人も多いだろう。どうすればいいか。

日本人は表面的には西洋化されているが、深いところでは伝統的日本人であり、東洋人である。であるから東洋思想であれば現代的に解説できれば日本人でも深いところまで理解できる可能性がある。日本人は東洋思想を学ぶべきだ。しかし東洋思想だけではいけない。それだけでは少なくとも十分ではない。深く理解できた東洋思想と表面だけでもいいから理解できた西洋思想を正しく合成する。それがもしできるならば、恐らく日本に正しい思想をもたらすことができる。

西洋思想とは言っても哲学科で習う思想である必要はない。逆に哲学プロパーの思想は特に19世紀以降になるとレベルはどんどん上がるが専門外の人には関係のない思想になってしまっていてビジネスには不向きである。政治学、経済学、ビジネス書、科学技術のほうが良い。

では東洋思想に関してはどの思想が良いか。日本では儒教と仏教と神道がある。どれも非常に大切な思想だ。

神道は日本人の初心であり、日本人のアイデンティティでもある。日本人らしさを大切にするうえでとても重要な思想。

仏教も大切だ。日本人の魂の救済という意味で非常に重要な思想である。

ただ私はビジネスへの応用という点から考えると儒教をはじめとする中国思想が最も重要と考えている。中国思想は本質的で足がついていて、思想の中ではわかりやすく合理的である。東洋的な柔軟な合理性がある。西洋的な合理性を受け入れる際の土台となる。仏教や神道がビジネスに全く役に立たないというわけではない。中国思想が10役に立つとすると、神道や仏教は2くらいかと思う。さらにビジネス以外の精神性と言う観点ではすでに述べた通り神道も仏教も非常に重要である。

15年ほど前、IT業界を少し研究していた。かなり昔の情報で恐縮だが少し書いておく。ソフトブレーンという会社を研究していた。中国人の宋文洲さんという人が日本で創業した会社である。営業管理のソフトウェアをつくるソフト会社であり、コンサルティング会社である。私はこの会社の戦略性と思想が非常に面白いと感じて何冊も本を読んだ。現在は東証1部上場廃止になっており現在の動きは追っていないのでよく知らない。しかし当時非常に興味を持った。私はこの会社の戦略は中国思想だと直感した。

中国では現在も思想が生きている。無思想になった日本とは違う。宋文洲さんは日本の営業を批判していたのは、日本の営業に思想がないからだろう。現在は中国は単なるモノづくり大国と思われているが、思想が生きているため戦略でも日本より上を行くはずである。

わたしはプログラマーを短期間していたが、上司が「システム開発は基本はモノづくり」と言っていた。 システム開発をシステムという高品質のモノづくりととらえているのだ。 IT革命を製造業の延長としてとらえている。

新しい技術が生まれると最初は多くの人はそれまでの技術の延長として考える。堺屋太一『知価革命』に「人間はいつの時代でも新しい機器を現にある機器の機能の拡大として考える。」とある。『知価革命』によると蓄音機によるレコードは人々は文字通り「ボイスレコード」=「音声記録」と考えた。文字で記録する代わりに音声で記録するというわけだ。映画は「ムービングピクチャー」=「活動写真」であり写真が動くものと考えていた。「ボイスレコード」が音楽を録音した娯楽文化となるには15年を要し、「ムービングピクチャー」がドラマとなるまで20年かかったという。自動車も馬車の延長と考えられた。

日本も製造業に過剰適応したためIT革命をこれまでにあった製造業の延長としてとらえている。 他の国ではシステムは第一義的には戦略であって決してモノづくりではない。システム開発をモノづくりととらえる日本人にはAmazonやGoogleのような高度な戦略は期待できないであろう。

日本は近代化し、1980年代には完成した製造業国家になった。 製品の質はよく生活は豊かで生活保障はしっかりし貧富の差はなく寿命は長い。もちろん平和で治安はよい。 理想的な製造業国家の完成だ。

しかし「ある環境に過剰に適応した者は環境の変化に適応できなくなる」と堺屋太一氏は言う。 工業時代に過剰適応したため情報革命には乗り遅れており新しい戦略が生まれない。

ソフトブレーンを研究していたころsalesforce.comという企業に関しても研究していた。アメリカの会社でソフトブレーンと同じく営業管理ソフトを開発している。競合他社だ。詳しくは述べないが非常に優れた体系的戦略をもった企業であり当時非常に驚いた。私が思ったのはソフトブレーンよりsalesforce.comのほうが上だという感想。

この違いは思想にある。別に中国思想が西洋思想より劣っているというつもりはない。中国の古典は西洋思想と肩を並べる思想であり、中国思想のほうが優れている側面もある。もちろん逆もあるが。

ただ現代のビジネスを支える技術や考え方は西洋由来なのでビジネスを行う上で中国思想に基づくソフトブレーンより西洋思想に基づくsalesforce.comのほうが明らかに相性がいいのである。西洋思想のほうがビジネスにおいては有利なのだ。であるから日本に新しいビジネスに役立つ思想をつくるのであれば東洋思想をバックボーンとしながらも西洋思想を正しく合成した思想が必要になる。

では正しい思想があればすべてうまくいくのか。そうとは限らない。逆に思想があったせいで変化に対応できなくなる場合もある。李氏朝鮮を例に考える。李氏朝鮮は儒教の国であり支配階級には徹底して儒教が叩き込まれた。

以前読書会で李氏朝鮮の教養人による日本旅行記を読んだ。李朝の教養人が日本を訪れ日本人と交流する。その人の感想では日本の士大夫より朝鮮の士大夫のほうがレベルが高いという結論である。その朝鮮人は日本を旅し日本の風景を見て即興で漢詩を残しているが総じてレベルが高く、非常に面白い。当時の日本人では同じレベルの漢詩をかける人は少なかったろうと思う。

李氏朝鮮では科挙という官吏任用試験があった。科挙があると試験に受からなくてはいけないため必死で勉強しガチガチの儒者になる。あるひとつの思想にガチガチに縛られると海外の文化の流入など新しい動きに対応できない。新しい動きがすでに完成された思想体系を破壊するからだ。それで李氏朝鮮は近代化に失敗した。

無思想である現代日本は良くない。ガチガチの思想である李氏朝鮮も変化に対応できない。ではどのような思想がいいのか。結論から言うとゆるやかな大系を持った思想がもっとも変化に対応しやすい。

日本の明治維新が典型である。明治維新は当時の日本の下級武士たちによって起きた。当時の武士たちの思想は儒教であった。日本は儒教を中国から輸入した。他にもいろいろな文化を輸入したが、宦官と科挙は輸入しなかった。朝鮮と違い科挙が無かった。

当時の武士たちは儒教の本質を学んだが、科挙が無いので細部には拘泥しなかった。もちろん儒教専門の学者は日本人でもガチガチの儒者であった。そしてそのような儒者たちももちろん必要だった。しかし時代をつくった武士たちはゆるやかな思想体系を持っていた。

明治維新は儒教精神による近代化だったのだ。同じ儒教を主流の思想としながらも李氏朝鮮はガチガチで変化に対応できなかったのに対し、ゆるやかな体系を持つ日本の武士たちは変化に対応できた。

福沢諭吉を読む。 当時の儒教精神が西洋思想をいかに取り入れたかがよく分かる。 彼の著作は儒教と西洋思想の出会いそのものである。 日本では確かに儒教的合理性は近代化に役に立ったのだ。 日本に土台となる合理的思想がなかったら例えばエスキモーが近代化するのと同じくらい困難だったはずだ。

『三国志』で孔明の読書方法について短い記載がある。孔明の友人である徐庶たちは読書において思想の細部の解釈にこだわったが孔明は大略を理解したとある。孔明は思想の本質を理解したのだ。すでに述べた通り細かい知識は応用が利かない。しかし本質は応用ができる。孔明は本質の応用ができたため現実でも大きな仕事ができたのだ。

孔明の読書方法が明治維新を興した日本の武士たちの読書方法に似ており、徐庶たちの読書方法は李氏朝鮮の両班の読書に似ている。それに対して読書をしないの張飛が現代日本に似ているということになってしまうのか・・。

無思想とガチガチの思想の中庸が大切。ゆるやかな体系。

『中庸』に次の言葉がある。

書下し文
仲尼曰く君子は中庸す。小人は中庸に反す。

現代語訳
孔子が仰った。君子は中庸し小人は中庸に反する。

次の言葉もある。

書下し文
子曰く、道の行われざるや我これを知れり。知者は之に過ぎ、愚者は及ばざるなり。道の明らかならざるや我之を知れり。賢者は之に過ぎ、不肖者は及ばざるなり。

現代語訳
孔子が仰った。道が行われないのを私は知っている。知者は中庸以上のことを行い愚者は中庸まで到達しない。道が明らかにならないのを私は知っている。賢者は中庸を超えてやり過ぎてしまい、不肖者はそこまで到達しない

次の言葉もある。

書下し文
子曰く、天下国家も治むべきなり。爵禄も辞すべきなり。白刃をも踏むべきなり。中庸は能くすべからざるなり。

現代語訳
孔子が仰った。天下国家を治める才能がある人はいる。高い位を辞退する高潔な人もいる。戦場で敵を恐れない勇敢な者もいる。しかし中庸を守る人はなかなかいない。

「ある環境に過剰に適応した者は環境の変化に適応できなくなる」と堺屋太一氏は言う。これに関して『老子』第十五章に次の言葉がある。

書下し文
此の道を保つ者は盈つるを欲せず。それ唯だ盈たず、故に能く敝れば新たに成る。

現代語訳
道を保つ者は完成させようとしない。完成させないから、ひとたび破れてもまた新しく生まれ変わる。

李氏朝鮮は儒教国家として完成した。だから変化に対応できなかった。それに対して日本の江戸時代は儒教国家として完成しなかったのかもしれない。だから伝統的社会や思想が部分的に壊れてもまた新たな社会をつくれたのだ。 そして1980年代に製造業国家として完成した日本はその後変化に対応できなかった。

同じく『老子』に次の言葉がある。

書下し文
禍は福の依る所、福は禍の伏す所、誰かその極を知らんや

現代語訳
禍を土台として福は生じ、福のうちにすでに禍は芽生えている。誰がその究極を知り得ようか。

儒教国家として完成しなかったのは日本にとって「禍」かもしれない。 しかしそれにより近代化の成功という「福」が実現した。 しかし近代化という「福」により製造業に固執したため、 IT革命に適応できないという「禍」が生じている。 禍と福が互いに互いの原因となってどこまでも生起し続けるのが分かる。 誰かその極を知らんやというわけだ。

『近視録』道体篇に次の言葉がある。

書下し文
動静には端無く、陰陽には始め無し。道を知る者に非ずんば誰か能くこれを知らん。

現代語訳
動と静には端がなく陰陽には始めも終わりもない。道を知る者でなければ誰がこれを知るだろうか。

これは『老子』の言葉の別表現である。 「禍」が「陰」であり「福」が「陽」。陰陽が互いに生じあう。禍福がどこまでも生起し続ける。

現代日本ビジネスを考えるうえでも必要なのは「①地に足の着いた②分かりやすく③合理的な④普遍的で⑤本質をついた⑥儒教などの東洋思想をベースとし⑦西洋思想を合成した⑧大衆の中で活きている思想の⑨ゆるやかな体系」だと考える。恐らくこれが根本でありボトルネック。恐らくこの思想ができれば物事は自然と良くなるはず。

たしかに景気が悪いのも一因だろう。公共事業などの景気対策もある程度効果はあるだろう。しかし公共事業などの景気対策は効果はあるがすでに述べた通り「末」→「本」である。やや強引な方法だ。「本」→「末」のほうが儒教や老子で言う「自然な力」が働く。上記で述べたような思想が浸透して、戦略性が増し、成長産業がいくつも出てくれば、「自然と」将来の見通しが良くなり、勝手に景気が良くなる。自然の力が働く。「景気」の「気」は「気分」の「気」なのだ。景気が十分良くなれば増税しても問題がない。増税は景気後退の懸念があるので景気が悪い時は問題だが、十分に景気が良くなれば増税してもいい。積もり積もった国の借金も返せるようになる。

ゼロ金利で企業が資金を借りて投資をするのを促進しているが、ゼロ金利も「末」→「本」の政策だ。良い思想が浸透しいろんなアイデアが出るようになれば、少しくらい金利があっても企業は金を借りるものだ。良い思想と良い戦略が根本であり、金利は末端と言うべきだろう。

ではそのような思想をつくるのは可能か。分からない。しかし試してみる価値はある。コストはゼロだ。失敗しても害はほとんどない。リスクも少ない。社会全体がガチガチの思想にならない限り害はない。ガチガチの思想になる可能性もほとんどない。

ただ東洋思想と西洋思想の合成において下手にやると竹に棒を継いだようなわけのわからない合成思想ができる可能性はある。そうなるくらいなら合成などせずに東洋思想と西洋思想をそれぞれ大切にして住み分けたほうがいい。

あと思想につきものの害として、思想を誤解したり鵜呑みにしたりすると害を及ぼすことがある。思想の病である。このあたりは注意する必要がある。

思想が無いのがボトルネックと述べたがこれはビジネスだけではなくそれなりに多くの分野に当てはまる。合理性が求められる分野では特にそうだ。日本人は西洋思想を表面的にしか理解できない。だから真似はできるがそれを発展させることができない。これが多くの分野でボトルネックになっている。

それだけではない。そもそも思想が無いこと自体大問題である。日本人の精神にとって。これのほうがビジネスよりはるかに大切なくらいだ。

もともと日本には日本仏教という非常に偉大な思想があった。徳川家康は仏教の信仰心の篤さを恐れて管理統制したため江戸時代に入ってその活動は下火になった。かわりに導入したのが儒教である。江戸時代には儒教が栄えた。明治になると福沢諭吉は古臭い儒教を批判。明治政府は国家神道を重視。国家神道が広まった。GHQは国家神道を危険として潰した。マッカーサーは日本人は神風特攻隊になるくらいだから精神性を非常に重視すると勘違いしたようで、無思想化を徹底した。精神性の否定が行き過ぎた。日本は無思想になった。

現在日本人は信じるべきものを失っている。堺屋太一氏の『日本を創った12人』のマッカーサーの章で、GHQ改革後、日本は奇妙な唯物論がはびこるようになった、と述べている。1980年代に日本人がエコノミックアニマルと呼ばれたのもその点を指摘している。

私自身身に覚えがある。高校に入学した頃わたしは「A」という価値観を信じていた。「A」が何の価値観を指すのかは伏せておく。ともかく「A」こそが人生の目的だと信じていた。そして高校3年になったとき私は「A」ではなく「B」こそ大切だと思うようになった。「B」がどのような価値観かも伏せておく。そのころ「B」こそ人生の目的だと思った。浪人中わたしは再度「A」こそ大切な価値観であり人生の目的だと思うようになった。「A」→「B」→「A」と価値観が一往復したのだ。私は「おやっ?!」と思った。「何で自分は「A」を重要だと思ってたっけ?何で「B」を重要と考え始めたっけ?何でもう一度「A」を信じ始めたっけ?」と自問自答した。すぐに分かった。他人の影響だったのだ。他人の影響で人生において最も重要なことを決めていたのだ。自分の価値観と思っていたのがただの他人の影響だった。私は愕然とした。「俺って自分の価値観を持っていないのか?!」私は底知れぬ恐怖に陥った。そして学問には哲学という学問がありそこでは人間にとって何が大切なのかを学べると知った。歴史上の偉人たちがそのことについて考えた蓄積があると知った。浪人中の夏頃だ。それまで法学部志望だったのをやめて文学部を志望することにした。これが私が哲学を志した2番目の理由である。1番目の理由は述べないが、1番目の理由が9割で、述べた2番目の理由が1割を占める。大学で哲学を学び十分に自分で納得する価値観をつくり2番目の理由は完全に解決した。

無思想がやはり日本人の精神的な面でもボトルネックになっている。最近の若者は自分に自信を持てない人もいるという。普遍的な分かりやすい思想があれば、思想は精神に「芯」をつくる。この無思想性が正しいかたちで解決すれば日本が抱える問題の何割かは解決する気がする。

追記しておくが思想がボトルネックとは言ってもそれだけがボトルネックと言うわけではない。あくまで私が認識できるボトルネックが思想だというに過ぎない。おそらく他にもたくさんボトルネックはあるはずだ。それぞれの人が見つけてほしいと思う。たくさん見つけるほど国は良くなっていくからだ。

さらにこれは杞憂だと思うが、現在は思想がボトルネックだが、万が一、良い思想が日本国中に十分に広がったなら今度は思想はありふれたものになりボトルネックではなくなる。当然時代によって何がボトルネックかは違ってくる。

現代という時代に中国思想の古典などを今更学ぶのかと言う人もいるだろう。たしかに中国の古典は古い。しかし現代的によみがえらせることができれば実は非常に有用である。『老子』第四十一章に次の言葉がある。

書下し文
進道は退くが如し。

現代語訳
本当に進んでいる道は退いているように見える。

老子らしい若干極端な表現だが一理ある。一見後戻りすることで正しく前に進める場合がある。中国思想の古典に学ぼうとするのも同じである。ただ進むときには前を向いて進むものであり、単に昔に戻るのとは違う。

ニーチェの『善悪の彼岸』280に次の言葉がある。ドイツ語原典からの私訳。

「だめだ!だめだ!どうしたことだ!彼は後ろに戻ろうとしているのではないか?」
「そうだ!だが君がそのように嘆く時、君は彼のことをよく知らないでいるのだ。確かに彼は後戻りしている。偉大な飛躍を為そうとするあらゆる人々がそうするように。」

宗教改革やルネサンスも後戻りと前進を兼ね備えていた。宗教改革は聖書に戻り宗教の純粋性を取り戻すことで前に進む改革であったし、ルネサンスは古典ギリシアの学芸を復興することで前に進む運動であった。

私は古典から学ぶが後戻りしようとしているのではない。前に進むために古典を読むのだ。

続きは思想の分業をどうぞ。


■上部の画像は葛飾北斎

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