「末」→「本」??!!と「権」

ここでさらに一見前言を撤回するようなことを言う。すでに述べた通り本と末は「本」→「末」の流れであって決して逆ではない。末が本より重視されれば末が勝つ状況となりすでに述べたように害になる。

しかし私はここであえて「末」→「本」の流れの可能性を考えたい。儒教では本来あってはならない考えかもしれない。「末が勝つという邪道」と「末の有効活用」の境界線を探りたいのだ。邪道すれすれになる場合もあるので書くか迷ったが書いてみた。恐らく孔子がこの文章を読んだら宰我なみに批判すると思う。

例えば心臓マッサージである。ここでの本末の連鎖は以下の通り。

「心臓が正常である」→「心臓が動く」→「血液が循環する」→「酸素栄養が全身にいきわたる」

ここで何らかの事故で心臓が止まったとする。そして心臓マッサージをする。心臓を外部の物理的な力で動かし心臓を正常な状態に戻す。「心臓が正常である」→「心臓が動く」が本来の本末の流れだが、「心臓を動かす」→「心臓を正常にする」という「末」→「本」の流れになる。人工呼吸も同じ。肺に物理的に空気を入れることで肺を正常に戻す。

バイクの「押しがけ」という方法がある。これも似ている。ここでの本末の流れは以下の通り。

「バイクのエンジンが正常」→「タイヤが動く」→「バイクが動く」→「目的地に到着」

エンジンが故障して動かなくなったとする。その場合、物理的に人の力でバイクを押してタイヤを動かす。タイヤを動かすことでエンジンを正常に戻すという本来と逆の方法。これを「押しがけ」という。「バイクのエンジンが正常」→「タイヤが動く」という本来の本末の流れに対し「タイヤを動かす」→「エンジンを正常に戻す」という「末」→「本」の逆のパターン。

心臓マッサージと押しがけの両方に共通しているのは、心臓が止まったりエンジンが止まったり危機的な状況に陥った時に一時的に「末」→「本」の流れによって危機を脱出するという点。

危機的状況で本来の道理からそれて事態を収拾するという考えは実は儒教にもある。「権」という言葉で示される。『孟子』離婁章句上に次の文章がある。

書下し文
淳于コン曰く、男女授受するに親らせざるは礼か。孟子曰く、礼なり。曰く嫂溺れれば則ち之を救うに手を以てするか。曰く、嫂溺れるに救わざるは、是豺狼なり。男女授受するに親らせざるは礼なり、嫂溺れれば則ち之を救うに手を以てするは権なり。曰く、今天下溺れる。夫子の救わざるは何ぞや。曰く天下溺れれば之を救うに道を以てし、嫂溺れれば之を救うに手を持ってす。子、手を以て天下を救わんと欲するか。

現代語訳
淳于コンが言った。「男女が物のやり取りをするのに直接手渡しをしないのは礼儀ですか?」孟子が言った。「礼儀です。」淳于コン「兄嫁が水に溺れていれば手をとって助けますか?」孟子「兄嫁が溺れているのに救わないような人は動物と一緒です。物のやり取りをするのに直接手渡しをしないのは礼儀ですが、兄嫁が水に溺れていれば手をとって助けるのは臨機応変のはからいである権道です。」淳于コン「現在天下は溺れています。あなたがその権道をもって原則にこだわらず臨機応変の処置で天下を助けないのはなぜですか?」孟子「天下がおぼれれば道で助けます。兄嫁が溺れれば手でもって助けます。天下を助けるのに道ならぬ方法で助けよというのですか。」

ここで重要なのは「権」という言葉。臨機応変という意味。非常に重要な言葉だが問題ある言葉でもある。

「男女が物のやり取りをするのに直接手渡しをしない」というのはもちろん手渡しすると手と手が触れるからである。それを避けるため。これが礼儀であり原則である。しかし兄嫁が水でおぼれていればそんなこと言ってられないので手で兄嫁の手を引っ張って助ける。危機的状況では原則から外れても問題を解決する必要がある。これを「権」と述べている。

淳于コンはなかなか鋭い。当時の中国は統一されておらず、天下が溺れている状況であった。しかし孟子は真面目な人で正道を守り正道からはずれてまで天下を救おうとはしない。孟子は偉大な人なので淳于コンは孟子の言う「権」によって天下を救えばいいではないかと言う。淳于コンの言い分にも一理ある。孟子も返答に困っているようにすら見える。

三国志にも「権」という言葉は出てくる。劉備は赤壁の戦いの後、電光石火の勢いで荊州南部を制圧する。劉琦を荊州刺史としたので大義名分があったため躊躇がなかった。しかし劉備は益州攻略には非常に時間がかかっている。大義名分がなかったからだ。同時代の人々への信義と後世の君子たちの批評を畏れてであろう。実際『近思録』では荊州制圧は評価され、蜀攻略は批判されている。

しかし当時は乱世であり、我々が生きている治世の時代とは違う。 ホウ統引注の『九州春秋』から引用する。大義名分がないため益州攻略に動こうとしない劉備に対してのホウ統の言葉。

原文
統曰権変時、固非一道所能定也。兼弱攻昧、五伯之事。逆取順守、報之以義、事定之後、封以大國、何負於信?今日不取、終爲人利耳。

現代語訳
ホウ統が言った。今は臨機応変の手段をとらなければいけない権変の時です。正義だけを固く守っても物事を定められません。弱い者を併合し暗愚な者を攻めとるのは五覇のわざです。道義に逆らって武力で攻略し道義に従って道徳で治めれば十分であり、道義で彼らに報い、事が定まった後大国に封じてあげれば信義に背くことにならないでしょう。ここで益州を取らなければ他人に取られるだけです。

「権」という言葉が出てきている。「権変時」とある。『孟子』の「権」と同じ意味だ。確かに劉備が益州を取らなければ曹操によって奪われていただろう。ホウ統の意見にも一理ある。

心臓マッサージやバイクの押しがけも緊急時において「末」→「本」の手段を取るのであって「権」の一例である。しかしもちろん本来は「本」→「末」の流れが原則であるのはいうまでもない。

似たような例だが、景気対策としての公共事業を挙げる。ここでの本末の流れは以下の通り。

「需要がある」→「生産供給が生じる」→「商品サービスが売れる」→「金が循環する」

「需要がある」→「生産供給が生じる」→「商品サービスが売れる」という部分が実体経済が正常であるということである。「実体経済が正常」→「金の循環」と言ってもいい。「実体経済が正常」が本であり「金の循環」が末である。

しかし経済恐慌になった場合、公共事業を行う。これは「金の循環」を強制的に行うことで「実体経済の正常化」を行う手続きである。「末」→「本」の流れである。

「実体経済が正常」→「金の循環」という「本」→「末」の流れはアダムスミス的な考え方である。「需要がある」→「生産供給が生じる」→「商品サービスが売れる」→「金が循環する」というのは「本」→「末」の流れ。すでに述べたように「本」→「末」の流れには「自然な力」が働く。儒教や老子はその自然な力を重視する。経済には自然な力が働き、あまり人の手により触らない方がうまくいくという考え方だ。

それに対し「金の循環」→「実体経済の正常化」という考え方はケインズ的な考えである。「末」→「本」の考え方である。現在ではケインズの考えは常識だが「本」→「末」の流れに反する考え方のため最初に提唱されたときは恐らく突拍子もない考え方だったろう。

あるブログで経済学に関し次のように述べていた。「経済学ではいままで内容のある学説は二つしかない。基本的には経済に手を加えないほうが良く、しかしたまには手を加えたほうがいいという二説だ。」非常に乱暴な説だが、一理ある。アダムスミスとケインズの学説が最も優れているという意味だ。

他にも例を挙げる。我々は面白いから笑う。コメディをテレビで見る場合。本末の流れは以下の通り。

「面白い」→「視聴者が笑う」→「視聴率が上がる」→「収入があがる」

我々は面白いから笑う。「面白い」が本であり「笑う」が末である。「面白い」→「笑う」という本末の流れがある。しかしドリフなどコメディではあらかじめ笑うべきところに笑い声が録音されていたりする。我々視聴者は笑い声が入っているとより面白いと思う。これは「笑うから面白い」という流れであり「末」→「本」の流れになる。

これもある意味邪道である。面白さを追求する理想主義的な芸人は根本を重視するので、笑い声の録音には冷淡だろう。しかし視聴率を重視する現実主義者のプロデューサーは末を重視し笑い声の録音に積極的かもしれない。

我々は悲しいから泣く。しかし心理学では「泣くから悲しい」と言われることがある。ジェームズ=ランゲ説という。あくまで本来は「悲しい」が本で「泣く」が末なのだが、泣くことで一層悲しくなるという「末」→「本」の流れもある程度あるかもしれない。ただあくまで本来は「悲しいから泣く」のである。

「地位が人を作る」という言葉がある。高い地位につくと人格が修養されるという意味。本来であれば「立派な人格を持っているから高い地位につく」という流れになる必要がある。「立派な人格」→「高い地位」。「立派な人格」が本で「高い地位」が末である。しかし「地位が人を作る」は逆。「高い地位」→「立派な人格」。もちろん「地位が人を作る」は良いことで重要なのだが、高い地位につけば人格も良くなるのを当てにして変な人を高い地位につけるのは間違いである。あくまで「立派な人格」→「高い地位」が正しい。

もう一つ例を挙げる。スポーツの試合などで緊張する時がある。
「自信がある」→「本番でも平然としていられる」
「自信がない」→「本番で緊張する」

これも本末の流れ。「自信がある」が「本」。「本番でも平然としていられる」が「末」。では「自信がない」→「本番で緊張する」の場合に「末」→「本」は試せないか。緊張しているときに平然を装ったり緊張を抑える。すると「自信は生じる」となるか。これはならない。逆に緊張を抑えれば抑えるほど緊張は高まっていく。緊張を抑えるより緊張するに任せたほうがいい。そっちの方がまだましである。逆に程よい緊張になって調子が良くなる可能性もゼロではない。

「末」→「本」の例を挙げてきた。コメディの笑いのようなそれなりに効果のあるもの、心臓マッサージや押しがけのように緊急時にのみ効果のあるもの、緊張の抑制のように悪影響のあるものなどがある。効果があるかどうかはケースバイケースと言うべきであり、全体に共通した基準などは発見できなかった。ただ強調しておきたいのは「本」→「末」が本来のあり方であるという点。

続きは道と無形をご覧ください。


■上部の画像は葛飾北斎

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