孔明と賈ク

三国志で本と末について考える。孔明と賈クについて論じる。三国志に興味ない方は飛ばしていただければ。

賈クについて。裴注で賈クは酷評されている。例えば董卓が王允に殺された後の話。李・郭らはあきらめて軍隊を解散し故郷に引きこもろうとした。しかし賈クはそれは危険だとして反対。軍勢を率いて長安に攻め込むよう進言。これをきっかけとして見るも醜怪な李・郭の乱が始まる。

裴松之は賈クを「不仁」と決めつけ、やっと董卓が死んで天下が太平になりかけたのにそれを台無しにしたのは賈クの進言のせいだとして糾弾している。

しかし賈クが長安進撃を進言したのは、そうしないと賈クたちの命が危険だったからである。賈ク自身「此救命之計」と述べているように、これは正当防衛である。裴松之の糾弾ぶりはやや不自然と言って良い。

また賈クは荀彧荀攸と同列の列伝が立てられている。裴松之はその点に関し陳寿を批判している。荀彧荀攸のような高潔な人と賈クを同列にするな。郭嘉程昱と同列にしろと言う。

たしかに荀彧荀攸は高潔な人だ。しかし賈クも例えば李・郭の乱の時に、李カクの無道ぶりを諫め政治を正しい方向に匡正したとある。それなりに正しい人だったと言って良い。やはり裴松之の酷評ぶりはやや不自然。

なぜ裴松之が賈クを糾弾したか。簡単に結論から述べる。賈クが裴松之に嫌われた理由は明らか。『荀子』強国篇の言葉を再度引用する。

書下し文
人君たる者、礼を貴び賢を尊べばすなわち王たり。 法を重んじて民を愛すればすなわち覇たり。 利を好みて詐多ければすなわち危うし。 権謀傾覆幽険なればすなわち滅ぶ。

現代語訳
君主たるものは礼儀を重んじ賢者を重用すれば王者になれる。 法律を重んじて民を愛すれば覇者になれる。 利益を重んじて詐術が多ければ国は危うい。 権謀術数を用い陰険であれば国は滅ぶ。

賈クが裴松之に嫌われた理由は簡単だ。権謀術数が得意だから。 先に「天→人間本性→道→仁徳→礼儀→法律→利益→武力→権謀」という本末の連鎖を挙げた。 賈クはそのもっとも末端である権謀術数に長じていたからである。

賈クのような人は場合によっては必要かもしれないが、このような人があまりにはびこると、世の中は陰険になり足の引っ張り合いで滅ぶ。

日本は権謀術数を用いる人はいるが数はそんなに多くない。だから権謀術数がはびこって国が亡ぶというのはあまりピンとこないかもしれない。それに対し中国は昔から権謀術数を用いる人が多い。

10年ほど前ある中国の人が言っていた。日本人はひとりひとりはそんなに強そうではないが、協力し合い連携しあって大きい仕事をする。中国人はひとりひとりは強いが互いに足の引っ張り合いをする。中国人である裴松之も権謀術数の危険性を身にしみて痛切に感じていたのかもしれない。

裴松之は賈クが荀彧荀攸のような徳の高い人物と同列の伝が立てられたのを非常に怒っている。郭嘉程昱と同列にしろと言っている。明らかに賈クの権謀を好む性格その道徳性を問題視しているのが分かる。

章炳麟という清末の中国の思想家がいる。章炳麟の同時代人で清末革命を論じている志士たちの中に、賈クや陳平を尊敬し彼らを真似たいと思っている人たちが非常に多い、と章炳麟はその論文で歎いている。引用する。

現代に革命を言う者が陳平・賈クを至宝とするだけでなく、 自分自身も陳・賈の行動を真似たいと思っている。 彼らを非凡抜群の才能と思うとは、悲しいかな、悲しいかな。 現代中国に欠けているものは、知恵謀略ではなく貞節信義であり、 権謀術数でなく公正廉直なのだ。

清末の中国は深刻な国難であった。彼は国を深く憂えていたのだろう。同じく国を憂えていた当時の志士たちが、よりによって賈クを慕っていたというのは深刻だ。権謀より理想が大切だという章炳麟の嘆きはよく分かる。

裴松之も賈クを陳平と並べて批判している。彼の批判を要約。『漢書』においては張良と陳平が同列の伝が立っている。張良は人間性も高潔だが陳平はそれより明らかに劣る。しかし代表的な智謀の士が他にいなかったので仕方なく張良と陳平は同列の伝になった。

しかし曹魏では高潔な荀彧荀攸以外にも人間的に劣る郭嘉程昱がいるではないか。賈クは郭嘉と同列にしろと言って陳寿を批判する。陳平と似た人物と見ている点からして裴松之が賈クの権謀を嫌っているのは明らかだと思う。

曹丕が皇帝になった時、賈クは大尉になった。それを聞いた孫権は笑ったという。人間のスケールの大きい孫権からしたら、賈クのような人物は高位につくべきではないのかもしれない。

賈クは決して賄賂をとったり残酷なことをしたりと分かりやすい悪事を働く人間ではない。暴虐な李カクを諫め政治を正しい道に戻そうとしていた点からすると、個人的にはどちらかと言うと良心的な人間だったかもしれない。しかし権謀を行う人物である以上、長期的に見るとその意図とは裏腹に悪影響をたれ流す可能性がある。裴松之章炳麟孫権はそのような賈クの人間性を嫌ったのだ。

賈クは末技が得意であったため裴松之に嫌われた。権謀術数は一見効果的のように見えて、長い目で見れば世の中を腐敗させていく。他人の罠に引っかからないためにある程度習熟する必要はあるが、積極的に用いるのは問題がある。

書下し文
君子の道は闇然として而も日々章かに、
小人の道は的然として而も日々に亡ぶ

現代語訳
君子の道は人目をひかないのに 日に日にその真価が表れてくるが、
普通の人間の道ははっきりと人目をひきながら 日に日に消え失せてしまう

賈クの知略は「小人の道」の典型。彼の知略は実に正確で鋭く鮮やかで、時によっては必要だ。「的然」としていて非常に人目をひく。しかしそれは末技だ。長期的には道徳的に悪影響を及ぼす。「日々に亡ぶ」とはこれを指している。

賈クの知略がいかに鮮やかだったかを書いていく。知ってるよという方も多いだろうが、復習がてら。

賈クは曹操に仕えたが、曹操が馬超と戦った時の賈クの策。馬超と同盟している韓遂と馬超の間を離間する。曹操が韓遂に手紙を送り、その手紙をあらかじめ部分的に墨で消したり、書き改めたりしておいた。馬超が手紙のことを知って韓遂に確認する。

馬超「曹操から手紙が届いたらしいな。見せてみろ。」
韓遂「これだ。」
馬超「何で消したり改めたりしてあるんだ?」
韓遂「なぜだろう。最初からこうなっていたんだ。」
馬超「・・・」

内容がばれないように韓遂が手紙を書き改めたと馬超は疑いを抱く。離間に成功した。賈クの権謀術数ぶりが分かる記述だ。かなり酷い策と言える。

これも賈クが曹操に仕えた時。二人の息子、長子曹丕と年少の曹植の後継者争いに関し曹操を説得する有名な場面。

曹操「後継者問題をどう思う?」
賈ク「・・・」
曹操「私が質問してるのに答えないのはなぜだ?」
賈ク「ちょっと考え事をしておりまして・・」
曹操「いったい何を考えていたのだ?」
賈ク「袁紹父子と劉表父子について考えていました。」
曹操は大笑し後継者問題は解決した。

袁紹も劉表も年長の息子より年少の息子を後継者にしようとして家が滅びた。いまだに記憶に生々しい袁紹・劉表の相続争いをあげて説得するのは見事。押しつけがましくないのに完璧に説得する。実に鮮やか。

曹操に仕える前、張繍に仕えていた時。この時は曹操と敵対関係。曹操が攻めてくる。しかしなぜか突然曹操が退却する。張繍はそれを追撃する。
張繍「退却する相手を追撃するのは定石だ。いくぞ。」
賈ク「やめたがいい。」
張繍「いや行ってくる。」
→張繍は負けて戻ってくる。
張繍「お前の言ったとおりだったな。」
賈ク「もう一度追撃しなさい。」
張繍「え?マジ?じゃあ行ってくる。」
→張繍は大勝。
張繍「最初なんで負けたの?2回目何で勝ったの?訳わかんないんだけど。」
賈ク「曹操が戦わずして退却したのは国元で何かあったから。退却するとは言っても曹操ほどのいくさ上手なら、精鋭を率いてしんがりをしている。だから最初は負けた。しかし曹操は急いでるから一度追撃を退けたら備えをしないで急いで帰る。だから2回目は勝てた。」
張繍は感服したという。

「小人の道は的然として而も日々に亡ぶ。」「普通の人間の道ははっきりと人目をひきながら 日に日に消え失せてしまう。」 という言葉はまさに賈クのためにある言葉だ。

賈クの智謀はたしかに鋭い。こんなに読みが正確な人物が会社に一人いたら重宝するだろう。だからこそ曹操は賈クを重用したのであり、劉邦は陳平を重んじた。賈クに関する『魏書』の記述は熟読に値する。その鋭い読みは読んでいて非常に勉強になる。 しかし尊敬は出来ない。長い目で見れば悪影響が多い。

賈クと対照的なのが孔明。孔明は権謀術数のような末技は用いず、根本を重視した。先の荀子の言葉の「礼儀を重んじて賢者を重用すること、法律を重視して民を愛すること」はまるで孔明のことを述べているかのようである。裴注に「袁子曰。亮持本者也。」とある。「孔明は物事の根本を備えていた。」という意味。

先ほどの『中庸』の言葉。「君子の道は闇然として而も日々章か。」「君子の道は人目をひかないのに 日に日にその真価が表れてくる。」孔明は「君子の道」の典型。君子は根本を重視する。『論語』学而に「君子は本を務む」「君子は根本について努力する」とある。一見ぼんやりとしているがその効果はボディブローのようにじわじわと効いてくる。

梁の殷芸の「小説」に以下の有名な話がある。

桓温が蜀を征したとき、孔明に仕えたことのある百歳の老人がいたという。桓温「諸葛丞相は、今で言えばだれでしょうか。」桓温は自分と言ってほしかったのだろう。しかし老人は次のように言った。「諸葛公の在世中は他人と違うところに気づきませんでした。しかし公が歿せられてからは、あのような人は見たことありません。」

孔明の治世は根本を重視するため『中庸』にある通り、人目をひかなかったというのだ。しかし彼の政治は『中庸』にある通り日に日に真価が表れ理想的な治世をもたらした。彼の死後も蜀が姜維による無理な外征を続けながらもしばらく生きながらえたのは、孔明の善政の遺産だろう。

我々はこの老人をバカにして笑ってはいけない。我々も「孔明は演義では超人的な知者だけど正史ではただの有能な官吏だよ。」とか言う。我々も根本を重視し一見当たり前を行う孔明の叡智に気づいていないのだ。正史の孔明は実は過小評価されやすいのである。

ついでに言うと趙雲も似ていて過小評価されやすい。「趙雲は演義では超人的な勇者だけど正史ではただの有能な部将だよ。」と言われる。一見当たり前を行う趙雲の偉業に気づかない。孔明と趙雲は価値観も行動も似ており非常に相性が良かったと推測される。常に行動を共にしているため、恐らく連携していたと思う。

続きは「末」→「本」?!と「権」をご覧ください。


■上部の画像は葛飾北斎

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