本末分析の具体例追加

本末について色々書いてきたが、まだまだ分かりやすく書けている自信はない。思想が分かりづらいのは具体例が少ないからというのが一つの原因になっている。なので具体例を追記しておく。本末分析を現実の問題に適用する。

ここで問題になる点が一つある。例えば医療を例にして本末の分析をするには、思想を知っているだけではだめだ。当然医療に関する知識が必要。しかし私には医療の知識がない。だから医療を例にしては書くことができない。

中途半端な知識がある分野に関してはその分野を例にして本末分析をできなくはない。しかし間違えたことを言ってしまう可能性はおおいにある。書くと間違えたことを言ってしまう可能性というマイナスと、書けば一つ例を追加でき思想が分かりやすくなるというプラスがある。プラスとマイナスを比較衡量してどうするか決める。今回敢えて例を追加することにした。ちょっとごたごたした文章になったが、そこは気にしない。

ひとつは前の「道と無形」の最後で少し書いたが途上国支援について。もう少し追記しておく。素人の考えなので間違えてたらゴメン。

何度も引用するが『孟子』離婁章句下から。

書下し文
源ある水はこんこんとして昼夜をおかず、穴を盈たして進み、四海に至る。本ある者はかくの如し。苟も本なからしめば、七八月の間、雨降りて溝みな盈ちるも、その涸れるや立ちて待つべきなり。

現代語訳
水源のある水はこんこんと湧き出て、昼も夜も穴を盈たして進んで海に至る。根本がある者はこのようだ。根本がなければ一時的に大雨が降って田畑が潤うけれど、長続きしない。いずれ涸れてしまう。

水源のある水はどんどん水があふれ川になって流れていく。水源という根本がある。一時的な大雨は根本がない。一時的に潤うが長続きしない。途上国支援において恐らく教育が根本ではないかと思っている。教育が充実すれば自助努力ができる。水源のある水がこんこんと湧きだし田畑を潤し続けるように、教育が充実すればその人のためその地域のためになることがどんどん湧き出してくる。

食糧支援はもちろん大切だ。しかしこれは一時的な大雨と同じで一時的に助かるがその効果は長続きしない。食糧支援を否定する気は全くない。食料が無くて死んでしまっては元も子もない。非常に大切だ。しかし長期的に根本となるのは教育だろうと思う。

日本は第二次世界大戦で主要都市は焼け野原になった。街も経済も空襲を受けたところはほぼ完全に崩壊した。しかしそのたった10年後の1956年にはひとり当たりのGNPで戦前の水準を超え、経済企画庁は経済白書の結びにて「もはや戦後ではない。」という時代を象徴する名文句を残した。

街も建物もインフラも非常に大切である。しかしそれ以上に大切なのが教育だろう。戦争前から何なら江戸時代から日本の教育水準は高かった。だから戦争でいったん街が建物がインフラが壊滅的に崩壊しても10年後には復活できたのだ。

途上国でせっかくの資源があっても、資源をめぐって民族同士が争い、資源を売った金で内戦のための武器を買ったりする。途上国の発展の上で資金は非常に大切だが、もっと大切なのは資金を使う人の人間性だ。そっちの方が根本。根本があったうえで末端たる金を有効利用すると金は大きな力を発揮する。その人間性を培う意味でも教育は大切だ。

素人で事情を知らないため楽観的になっているだけかもしれないが、教育が充実すればその地域のためになることがどんどん湧き出してくるのではないかと思う。その地域を良くするための「自然な力」が湧いてくる。儒教はこの「自然な力」を非常に重視する。このぼんやりとした「自然の力」が実は天の意思と言ってもよい。

儒教は当たり前を積み重ねて当たり前でないことを成し遂げると先に述べた。教育を充実させるという一見当たり前を積み重ねることで、その地域を良くするという当り前ではない結果を成し遂げることができるかもしれない。当り前を積み重ねることで結果が当り前に成し遂げられる。

途上国支援に関しては完全に素人なので分かったようなことを言っていいのか悩むところだが、思想が分かりやすくなればと思い追記した。

あとこの指摘はすでに述べたし不要な気もするが一応追記しておく。 儒教は「自然な力」を重視すると述べた。儒教的君子はこの自然な力を活用し物事を解決する。それが最も正しい解決方法である場合は常にではないが非常に多い。儒教的君子が問題を解決する場合、多くの人は「それは自然に解決したのだ」と言う。それはある意味当然である。君子は確かに自然の力を用いて解決したからだ。当然「自然に解決」する。「自然に解決」したほうが副作用が少なく全体としても善くなる傾向にある。もちろん君子はその自然の力を意図的に活用したのだが、多くの人はそこに気づかない。人々は君子の功績を忘れてしまう。

『老子』第十七章に次の言葉がある。

書下し文
功成り事遂げて百姓皆我自ずから然りと言う。

現代語訳
功業が完成し事業が遂行されると人々は「自然とそうなったのだ」と言う。

例えばAさんがある地域の教育を充実させ、教育によりその地域が良くなる自然な力が働き、地域が正しく発展したとする。すると人々はもちろんAさんの教育への功績は忘れないが、その後のその地域の発展は「自然とそうなった」と言う。それは全く正しい。その地域がその後よくなったのは間違いなくその地域の人たちの能力と努力である。ただAさんの功績が過小評価されてしまう可能性がある。Aさんはは過小評価されるのもあらかじめ覚悟しておかなければならない。「自然の力」を利用する者は「自然にそうなった」と言われるのを覚悟しておく必要があるのだ。

『孫子』形篇に次の言葉がある。

書下し文
善く戦う者の勝つや、智名無く、勇功無し。

現代語訳
善い方法で戦う者が勝つとき、智者としての名誉も無く、勇者としての功名も無い。

孔明や趙雲もその典型である。たしかに孔明や趙雲は非常に有名であり高い評価を受けている。そのため小説などでは非常に活躍する。しかし小説ではなく歴史書を研究する人たちは「孔明は小説では大活躍だけど史実ではただの有能な官吏だよ。」と言う。「趙雲は小説では大活躍だけど史実ではただの有能な部将だよ。」と言う。孔明と趙雲は「自然な力」を活用した人物だと私は思っている。だから二人は史実では過小評価されやすい。孔明に智名がなく趙雲に勇功がない。

「自然な力」を用いる孔明や趙雲は過小評価されやすいが、ただ実際には完全に忘れ去られる可能性は低い。有能な人物なので事績の半分くらいは歴史に残る。半分は残り半分は忘れ去られる。実際孔明も趙雲も現代でも非常に有名で尊敬されている。しかしその功績の半分は忘れ去られている。豊臣秀吉の弟の秀長も似ている。彼は生前から有名な人だったが、その功績の半分は忘れられていた。それにスポットを当てたのが堺屋太一の『豊臣秀長』である。堺屋太一のような優れた著作家によって発掘されないと忘れ去られるのである。

『老子』第二十七章に次の言葉がある。

書下し文
善く行く者に轍迹無し。

現代語訳
善い方法で進む者には車輪の迹が無い。

物事を正しく解決するほどその功績は後に残らないと言う。正しく進むと車の車輪の跡が残らない。 物事の正しい解決方法は「自然な力」を利用する解決方法である場合が多い。正しい方法をとると、「自然な力」に頼る割合が生じて歴史に残りずらくなる。ただ「轍迹無し」は言い過ぎか。半分消えて半分は残る。

ここからすでに述べた内容を繰り返すが、若干角度を変えて繰り返すことでさらに分かりやすくなる場合もあるので一応書いておく。付け足し。

途上国支援で教育が根本であり、教育が充実すればその地域をよくするための「自然な力」がぼんやりと働くと述べた。教育が充実すれば地域の人は自分で自分を助けることができるようになる。自然に地域が良くなっていく。このぼんやりとした力が「天の意思」だと述べた。

「天」=「神」として論じるが、神は我々を助ける場合、すべての場合ではないがほとんどの場合、ぼんやりとしか助けてくれない。神が助けてくれるからといって努力を怠る人はうまくいかないようにできている。「助けてやるけど努力しろ」が神の意思だ。

では神は誰を助けるか。根本を重視する人を助ける。根本を充実させると「自然な力」が働く。この「自然な力」を通して神は人を助けるからである。だから天は根本を重視する人を助ける。

『近思録』克治から再度引用する。

書下し文
先王のその本を定むるは天理なり。 後人の末に流るは人欲なり。

現代語訳
先王がその根本を定めたのは天理により、 後世の人が末端に流れたのは人欲による。

物事の根本ほど天理に近く。末端ほど人欲に近い。天理である根本を重視する者は天の助けを得る。ただ「末の重要性」で述べた通り「根本を備えた場合の末端」も重要である。儒教の経典には記載がないが「根本を大切にしろ、しかし末端も軽視するな」が神の意思ではないかと個人的に思っている。

『荀子』栄辱篇に次の言葉がある。

書下し文
仁義徳行は常安の術なり。然れども必ずしも危うからずんばあらず。汚漫突盗は常危の術なり。然れども未だ必ずしも安からずんばあらず。故に君子はその常に由るも小人はその怪に由る。

現代語訳
仁義を守り道徳を実践することは安泰を得るためのきまった方法である。しかし必ずしも危害に遭わないとは限らない。邪行と盗みは危害をこうむるきまった方法である。しかし必ずしもまぐれの安泰がないとは限らない。君子はそのきまった正しい方法をよりどころとするが、小人はその偶然をより所としていく。

仁義道徳は物事の根本であり天理に近い。これを守る人は天がぼんやりと味方する。しかしだからと言って危害に遭う可能性は当然ゼロにはならない。邪行は末端であり、根本を備えない末端である。しかしまぐれで安泰を得る場合もある。君子は正しい方法に拠っていくが小人は偶然を当てにしていく。

根本を重視する人を天は助けるが、それでも危害に遭う可能性がなくならないというのが面白い。ぼんやりとしか助けない。人が油断せず自分で努力することをやめさせないためである。神の老獪さである。欲望に走る人は欲望の対象を得る可能性が高い。そしてすぐに心が枯れるわけではない。しかし欲望の対象を得ても最初は快いが最終的には実は幸福にならない。さらに欲望に走り続けるとだんだん心が枯れてくる。気づいた時には戻れなくなる。精神的幸福を失う。欲望に走る人に欲望の対象を神は与える。すぐには心が枯れない。しかし最終的に欲望に走る人は戻れなくなる。欲望を求める人に欲望の対象を与える、これも神の老獪さを表す。

本末の流れは天理の一部である。理であり正しい道理である。

『近思録』致知篇から再度引用する。

書下し文
ただ理を照らすこと明らかなれば、自然に理に従うを楽しむ。 理に従いて行うは、これ理に順うことなれば、もとより難からず。 ただ人知らず、旋として安排著するがために、すなわち難しと言うなり。

現代語訳
ただ道理がはっきり分かりさえすれば、道理に従うのが自然に楽しくなる。 道理に従って行うのは、自然な道理に従うのであるから、本来難しくない。 道理が分からずいきなり勝手なことをするので、難しいと考えてしまう。

『近思録』出処篇から再度引用する。

書下し文
 賢者は理に順いて安らかに行う

現代語訳
 賢者は道理に従い心安らかに行動する

本末の流れを認識しどこがボトルネックになっているかを調べ、ボトルネックを補う。これだけでも自然な道理に従うことになり、道理に従うのが楽しくなる。

続きはボトルネック分析の具体例をどうぞ。


■上部の画像は葛飾北斎

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