天下の害 末が勝つ

『近思録』克治に次の記述がある。

書下し文
天下の害は末の勝つに由らざる無し。峻宇彫牆は宮室にもとづき、 酒地肉林は飲食にもとづき、淫酷残忍は刑罰にもとづき兵を窮め武を涜すは征討にもとづく。

現代語訳
天下の害はすべて末が勝つことによる。贅沢な宮殿は一般の住居からはじまり、 酒池肉林は一般の飲食からはじまる。度の過ぎた残酷さは刑罰からはじまり、 やたらと武器を用いるのは軍備からはじまる。

本は重要だが末も必要である。しかし末が勝ち過ぎると天下に害が及ぶという。 我々が生きていれば物質的生活というものがある。 我々は人間であり天使ではないから物質的生活は必要である。 住居も必要だし食べ物も必要だ。 国が存在する以上刑罰も必要だし、軍備も必要である。

私は安心できる住居や健康なおいしい食べ物も人間生活の根本だと思うが、 昔の儒教の思想では末端とされる。 刑罰も軍備も必要だが儒教では末端である。

住居が行き過ぎると昔の王公は過度に贅沢な宮殿を建てるようになり、 食事が行き過ぎると酒池肉林になる。 刑罰は必要だが行き過ぎると残忍になり 武力も行き過ぎるとやたらと武力を振りかざすようになる。 末が勝ち過ぎると天下に害が及ぶようになるという。

同じく『近思録』克治に次の記述がある。

書下し文
およそ人欲の過ぎたる者は皆捧養にもとづく。 その流れ遠きときはすなわち害をなす。 先王のその本を定むるは天理なり。 後人の末に流るは人欲なり。

現代語訳
人の過度の欲はすべて物質的生活に基づく。 それが行き過ぎると害をなす。 先王がその根本を定めたのは天理により、 後世の人が末端に流れたのは人欲による。

すでに述べたように我々は人間である以上物質的生活がある。 それが行き過ぎると害を及ぼすという。 そして末端が行き過ぎるのは人欲に流れる事であるという。 それに対し根本は天理に近いという。 物事の根本は最終的に天につながる。これはすでに説明した通りである。 「天→人間本性→道→仁徳→礼儀→法律→利益→武力→権謀」 の階梯があり、根本に行くほど天理に近くなる。

荀子は礼を中心とし仁徳は礼によって生まれるとした。 「礼儀→仁徳」である。本末転倒である。

私は儒教が社会に与えた影響史を知らないが、 荀子のような思想は礼でがちがちに固められた社会を作る危険性がある。 葬式の時にわざと泣くような。 礼は仁に対して末であるから荀子の礼中心主義、性悪説は「末が勝つ」思想と言って良い。

『近思録』総論聖賢に次の言葉がある。

書下し文
荀子は才高ければ、その過ち多し。揚雄は才短ければ、その過ち少なし。

現代語訳
荀子は才能が優れているので過ちも多い。揚雄は才能が足りないので、その過ちは少ない。

荀子は才能豊かである。読んでいて「この人頭いいな・・!!」と感嘆する箇所は非常に多い。 しかし「この人間違えてるな」と思う箇所も多い。 才能豊かなので影響力が大きく、間違えている箇所もあるので害も大きいのである。 間違えた思想が大きい影響力を持つ。

揚雄は漢代の人。私は詳しく知らないが、新釈漢文大系によると人間の本性を善悪半々と考えた人らしい。 才能が足りないので害も少ないと述べている。

このくだりはあるいは『中庸』の次の言葉を述べているかもしれない。

書下し文
子曰く、中庸はそれ至れるかな。民よく久しくすること少なし。

現代語訳
孔子が言われた。中庸はすぐれている。これを行う人は少ない。
君子は中庸す。

すべての場合ではないかもしれないが、多くの場合最もちょうどよい中庸というものがある。 多ければ多いほどいい、少なければ少ないほどいいという場合も時にはあるだろうが、多くの場合はちょうどよい中庸がある。 さらに引用する。ここでは「道」=「中庸」となっている。

書下し文
子曰く、道の行われざるや、我これを知れり。知者は之を過ぎ愚者は及ばざるなり。 道の明らかならざるや、我これを知れり。賢者はこれに過ぎ、不肖者は及ばざるなり。

現代語訳
孔子が言われた。道が世の中に行われないと私は知っている。知者はやりすぎてしまい、愚者はそこまで到達しない。 道が世の中に明らかになっていないと知っている。賢者はやりすぎてしまい、能力がない人はそこまで到達しない。

知者はちょうどよい中庸を超えてやりすぎてしまい。愚者はそのちょうどよい中庸まで到達しない。 荀子が知者にあたり揚雄が愚者に当たる。 愚者は能力がないのでほとんどの場合、少しプラスになるか少しマイナスになるかであるが、知者は能力があるのですごくプラスになるかすごくマイナスになるかのどちらか。荀子は知者の典型。非常に優れた内容を語るが、間違えているところも多い。 社会に対する悪影響も大きかったかもしれない。

他にも末が勝つ例を挙げる。 ビジネスでは金儲けは必要である。 「良い技術・アイデアがある。」→「社会の役に立つ」→「商品・サービスが売れる」→「利益が上がる」 と本末の連鎖がある。根本は「社会に役立つ技術・アイデアがある」で末端が「収益が上がる」である。 金儲けは必要だが、根本を忘れ金儲けのみに走るようになると「末が勝つ」状態になり「天下の害」となる。

アインシュタインが言った。

異性に心をひかれるのは善いことだ。しかしそれが人生の目的になってはいけない。

異性に心をひかれるのは重要だが「末」である。それが人生の目的になるのは末が勝つことだという。

恋愛に性欲はつきものである。しかし真心が本であって性欲が末である。 真心がなく性欲のみに走るのは「末が勝つ」ということになる。

国にとって武力は必要だ。しかし根本は正義であって武力は末である。 武力は正義のための武力である。董卓のように武力だけに走り横暴になるのはこれも末が勝つと言うべきだろう。

金儲けや性欲、横暴に走るのは『近思録』にあった通りすべて人欲である。 それに対し「社会に役立つ技術アイデア」「恋愛の真心」「正義」は根本であり天理に近い。

続きは末の重要性


■上部の画像は葛飾北斎

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