儒教の偽凡性

以上儒教における「本」と「末」について述べてきた。例をもう一度列挙する。
「仁徳→人材→土地→財力→事業」
「誠意→正心→修身→家斉→治国→平天下」
「良い技術→良い商品→営業→売上→利益」
「ガソリン→エンジンが動く→タイヤが回転→車が動く→レストランに着く」

「本」→「末」の順番を充分に理解したうえで物事を進めていけば、物事は無理なく自然にうまくいくというわけである。

もうお気づきだと思うが、これはすべて当たり前を述べているのである。当たり前の積み重ねである。 「良い技術→良い商品→営業→売上→利益」など普通の企業活動である。 「ガソリン→エンジンが動く→タイヤが回転→車が動く→レストランに着く」など日常である。

「誠意→正心→修身→家斉→治国→平天下」も検討する。

「古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は先ずその国を治む。」 「いにしえの時代に自らの聖人の徳を天下に明らかにしようとした人は、まず自分の国を治めた。」 これは当たり前である。天下を平定するためには、まず自分の国を治める必要がある。

「その国を治めんと欲する者は先ずその家を斉う。」 「自分の国を治めようとしたひとは、まず自分の家を和合させた。」 これも当たり前である。自分の国を治めるのは、自分の家すら和合できない人には無理である。

「その家を斉えんと欲する者は先ずその身を修む。」 「自分の家を和合させようとした人は、わが身を修めた。」 これも当たり前である。自分自身の家を和合させるには、自分自身の仁徳を磨いていなくてはいけない。

「その身を修めんと欲する者は先ずその心を正す。」 「わが身を修めようとした人は、まず自分の心を正しくした。」 これも当たり前である。

要は当たり前の積み重ねなのである。実はこれが儒教の特徴である。 では例えば私はいつも当たり前に働き、当たり前に食事をし、当たり前に生活しているが、これは儒教の神髄だろうか。それは違う。これは凡人の日常である(笑)。 「ガソリン→エンジンが動く→タイヤが回転→車が動く→レストランに着く」も同様に我々の日常である。

儒教が非凡なのは「当たり前を積み重ねて当たり前ではないことを実現する」点にある。「誠意→正心→修身→家斉→治国→平天下」において当たり前を積み重ねて「天下に太平をもたらす」という当たり前ではないことを実現する思想なのである。それは「当たり前を積み重ねて当たり前を実現する」凡人の日常と一見区別がつきにくいのである。

儒教を読んでいて眠たくなるのは、ここに原因がある。儒教を理解すると一見平凡な文章の中の深い含蓄が理解できるようになるが、儒教の非凡さに気づくのはそれなりに難しい。わたしも大学時代儒教を読んだときは、こんなに眠い思想が存在するのか、と愕然とした。何度読んでもその良さが分からなかった。儒教の英知を理解するようになったのは20代後半からである。

当たり前ではないことを「自然に」「無理なく」「当たり前に」行うための知恵が儒教にはある。奇策であれば、確かに面白いが、やってみないとうまくいくかわからない場合もあるだろうし、道徳的な問題が生じるかもしれない。高遠な思想だと地に足がつかずうまくいかないかもしれない。偉大な思想家たちが現実では失敗者だったように。しかし当たり前のステップに還元された思想は、実に当たり前に結果が出るのである。非常に正統派の地に足のついた思想なのである。

確かに孔子も孟子も現実では失敗者だった。しかし儒教の創始者のひとりである周の文王は成功者であるし、私の考えでは諸葛孔明の実行した政策の背景には儒教があると考えている。歴史にそこまで詳しくないのであまり確かな確信をもって人名を列挙はできないが、儒教の思想を用いて現実を改善した人は恐らく大量にいるだろう。

儒教は当たり前を述べるため高遠な思想家からは評価されづらい。仏教徒の一部やヘーゲルのような高遠な思想家は、儒教は通俗的な道徳の範囲を超えないと批判する。しかし実は非常に含蓄が深いのであって、儒教はじつは偽凡的なのである。

『近思録』致知篇に次の言葉がある。

書下し文
聖人の言はその遠きこと天の如く、その近きこと地の如し。

現代語訳
聖人の言葉は天のように高遠だが、同時に地のように身近である。

聖人は非常にレベルが高いのでその思想は自ずと高遠になるが、しかしみんなに分かるように身近なことに例えて話すので卑近で分かりやすいと言うのである。

Mr.Childerenの『Discovery』というアルバムがある。「終わりなき旅」という曲が非常に好きで何度も聞いている。もうひとつ好きな曲が入っていて「ラララ」という曲である。以下の歌詞がある。

太陽系より果てしなく
コンビニより身近な
そんな La La La そんな La La La
探してる 探してる

太陽系のように果てしなくかつコンビニより身近な「何か」を常に探している、という意味である。『近思録』の言葉に通じるものがあるだろう。次の歌詞もある。

参考書より正しく
マンガ本よりも楽しい
そんな La La La そんな La La La
探してる 探してる

参考書やマンガ本は中学生や高校生など若い人が読むものである。次の歌詞もある。

明日を生きる子供に何を与えりゃいい?
僕にできるだろうか。

作詞者は明らかに若い人々を心配し時代を憂えて国を憂えているのが分かる。

伊藤仁斎の『童子問』に次の言葉がある。

書下し文
髙きに居る者は低きを見る。故にその言低からざるを得ず。
低きに居る者は高きを見る。故にその言高からざるを得ず。

現代語訳
高いところにいる者は低いところを見る。
そのためその言葉は身近な表現になる。
低いところにいる者は高いところを見る。
そのためその言葉は高遠な表現になる。

儒教は高遠であると同時に身近である思想を目指すのである。

少し脱線だが、「当たり前を積み重ねる」というのは論文を書くときも重要な考えである。私は論文を書くのが趣味なのだが、最も理想的なのは「当たり前の推論を積み重ねて当たり前でない結論を論証する」論文である。その時論文は最も説得的で意義ある論文になる。

「当たり前を積み重ねて当たり前の結論を論証する」論文は意味がない。これは常識を再確認しただけである。「当たり前ではない結論」主張しながら「当たり前の推論」に還元されていない論文は、センセーショナルなだけで、重要な根拠が抜け落ちているはずである。最も良い論文は「当たり前の推論を積み重ねて当たり前でない結論を論証する」論文である。

続きは物に在るを理となすをご覧ください。


■上部の画像は葛飾北斎
「ホトトギス聞く遊君」。

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