儒教の性善説と天の関係を論じ以降の記述の前提とする。 一見話がそれるようだが、その後の論述に関係してくる。 『中庸』第一章に次の言葉がある。
書下し文
天の命ずるこれを性という。性に従うこれを道という。
現代語訳
天が命じたのを人間の本性という。人間の本性に従うのを道という。
天が人間に与えたのが人間の本性である。儒教では人間の本性を善とする。性善説である。 その善なる本性に従うのを道という。『大学』に次の言葉がある。
書下し文
その意を誠にするとは自ら欺くなきなり。
現代語訳
自分の意思を誠にするというのは、自分に嘘をつかないことである。
儒教で誠というのは他人に対して誠実という意味もあるが、 それ以上にまず自分自身に正直であることを重視する。
現代の言葉で言えば自分自身の良心に従うことである。 人間の本性は善であり、その善に正直になり従う。 もちろん自分の中には欲望もある。それがあるのは仕方ない。 欲望を必ずしも押さえつけたりはしない。 誰しも自分の中に良心と欲望の両方を見出すだろう。 そして実際に何か行動する時、自分の内に欲望はあるがそれには従わず、 自分の良き心のほうに従って行動する。 良心に従うほうが最終的に本当の意味で自分のためになる。 欲望に従うと一時的な快楽を得るが最終的に自分のためにならない。 欲望に従うと最初のうちはたいして悪い影響なく欲望も満たされて一見より良いようだが、 それを何年も続けると徐々に心は枯れて濁ってきて、 気づいた時にはもう遅く寒々とした人生を送るようになる。 元に戻れなくなる。
昔チェッカーズというグループの『ジュリアに傷心』という曲があり、 「俺たち都会で大事な何かを失くしちまったね」という歌詞があった。これだ。 昔チューブというグループの『ガラスのメモリーズ』という曲があった。 「二度とはほどけないの。ねじれた純情。」という歌詞があった。あれだ。
欲望に従っても最初の内はすぐには心は枯れたりしない。ここが面白い。だから欲望に従うと心の豊かさを保ったまま欲望も満たせる。多くの人はその道を選ぶ。しかし欲望に従い続けるとだんだん心が枯れてくる。すぐには心が濁らない点が、神の老獪さ、天の老獪さを示している。
性善説というと世間知らずな空想と思う人もいるだろう。 社会で暮らしていると欲にまみれた人もいる。こいつ悪の塊だろうと思いたくなる人もいる。 バガヴァッドギーター3章38節に次の言葉がある。
火が煙に覆われ鏡が汚れに覆われ胎児が羊膜に覆われているように、 この世は欲望と怒りに覆われている。
火はもともと明るいものだが煙によって濁ってしまう。 鏡はもともと澄んだものだが汚れで濁ってしまう。 それと同じように人間の本性も本来善であるが欲望で濁ってしまう。 世の中には欲にまみれた人は多いので性善説は疑わしいというのは確かに理由がある。
ヨガの本を読んでいる。『ハタヨガの神髄』『ヨガ呼吸瞑想百科』『心のヨガ』というアイアンガーという人の著作。 本格的にインドの古典を読む前にこれらの著作でヨガの思想を学んでいる。 『ヨガ呼吸瞑想百科』7ページに次の記述がある。
ヨガは自分の内部にある神性の見つけ方を体系的に教えている。 それは徹底的で効果的なものである。求道者は外側にある身体から内なる自己に向けて、 自分自身の謎を解明していく。
ヨガの修業により潜在能力が開発され、恐らく精神の拡大が起こり、最終的に自分自身の内に神を見るという。 ちなみに私はヨガを始めたが自分の内に神は見つけていない(笑)。 ただヨガは修行を行えば最終的には自分の内に神を見つけると教えている。
『心のヨガ』の245ページに次の記載がある。
「人間とは何なのか」この問いこそがまさにヨガが追求しているものである。ヨガの疑問の出発点であり、 あらゆる実践を下支えしている根本的な問いとは「我々とは何なのか」という単純な疑問なのである。・・・ 最終的に到達する正しいアサナとは「私は<それ>であり、<それ>は<神>である。」という状態を真に表現したものになるだろう。
神は当然善である。我々の心は欲望で濁っているが、潜在能力を完全に開発した修行者は自分の内に神という善を見出す。 そしてそれが「人間とは何なのか」という問いの答えであり、人間の本性である。ヨガも性善説に立つと言って間違いではない。 人間は一見、善も悪も両方持つようだが、修行を積むと善が湧き出てきて人間の本性は本当は善だとさとるに到るというわけだ。
『孟子』尽心章句上冒頭に次の記述がある。
書下し文
孟子曰く、その心を尽くす者はその性を知るべし。その性を知らばすなわち天を知らん。
現代語訳
孟子が仰った。自分の心を十分に発展させた者は人間の本性を知る。人間の本性を知れば天を知る。
「その心を尽くす」を「自分の心を十分に発展させた」と訳した。これは潜在能力を完全に開発したという意味である。精神の拡大と言ってもよい。そのような人は人間の本性は善であると知る。そして人間の本性を知れば天を知ることになると述べている。逆に言うとそのような修行を成功させなかった人は人間の本性が善だと気づかないということでもある。
修行により善なる人間の本性に気づき、それは天を知ることになる。 修行の結果、自分の内に善なる神を見出すというヨガの考えと一致している。 「天」というのは「神」と同じと言って良い。
もう一度『中庸』を引用する。
書下し文
天の命ずるこれを性という。性に従うこれを道という。
現代語訳
天が命じたのを人間の本性という。人間の本性に従うのを道という。
人間の本性は善でありそれは天が命じたのだという。天命である。 ヨガの思想にまだ詳しくないが、自分の内に見いだされる神が、 もし神自身が人間に与えたものであれば、ヨガの思想は儒教の考えと同じということになる。
『論語』為政篇に次の言葉がある。
五十にして天命を知る。
孔子は恐らく潜在能力の開発を行っている。そしてその結果人間の本性を知り天命を知った。 それではどのようにして潜在能力を開発したか。『大学』に次の言葉がある。
書下し文
その身を修めんと欲する者は、まずその心を正しくす。その心を正しくせんと欲する者はまずその意を誠にす。 その意を誠にせんと欲する者は、まずその知を致す。その知を致すは物に格るにあり。
現代語訳
道徳を修めようと欲する者は、まずその心を正しくする。その心を正しくしようとする者はその意思を誠にした。 その意を誠にしようとする者は、まずその知を明晰にさせた。その知を明晰にさせるのは物事の本質を捉えるにある。
身を修めるとは修身のことであり、道徳を修めることである。潜在能力の開発、精神の拡大だ。そのためにはまず自分の心を正しくする。心を正しくするためには自分の意思を誠にする。「その意を誠にす。」はすでに引用した。 自分に嘘をつかないことである。
意思を誠にするには、その知を明晰させる必要がある。これを致知という。さらに致知のためには物事の本質を捉える必要がある。これを格物という。合わせて格物致知という。格物致知が中国的修行方法である。
『易経』説掛伝に次の言葉がある。
書下し文
理を窮め性を尽くして命に至る。
現代語訳
道理を窮めて自分の本性を十分発展させて天命を知るに至る。
「理を窮める」というのが格物致知である。それにより「性を尽くす」が生じる。これが修身、潜在能力の開発、精神の拡大だ。その結果「天命を知る」。
修行で「天」=「神」を知るようになるという点で中国の儒教とインドのヨガは一致している。 しかしその実現の方法が違う。中国は格物致知という知的な方法であり、儒教はかなり理知的である。 それに対しインドはヨガという肉体的修行であり、そこから到達する世界はかなり神秘的である。
恐らく孔子は格物致知を行った人だと思う。孔子は非常に多才な人であり、若い時にいろんなことを学んでいる。 これは恐らく格物致知を行った状況証拠になると思う。
『論語』子罕篇に次の記述がある。
書下し文
達巷党の人曰く、大なるかな孔子、博く学びて名を成す所なし。 子これを聞き、門弟子に謂いて曰く、吾は何をか執らん。 御を執らんか、射を執らんか。吾は御を執らん。
現代語訳
達巷の村の人が言った。「偉大だね孔子は。広く学んで名を成すような専門を持っていない。」 孔子はこれを聞いて弟子たちにこう仰った。「私は何を専門にしよう。御者をやろうか。 弓をやろうか。私は御者をやろう。」
後半はやや分かりにくいが新釈漢文大系の解説を引用すると、 「人のほめたことに対して、謙遜の言葉で答えながら、弓道をやろうか、馬術で名を挙げようか、などと、 極めてユーモラスなことを言って門人たちの顔をながめている孔子の風姿がしのばれる。」とある。 後半は孔子が半分冗談を言っているようだ。
いずれにしても孔子は広く物事を学んだ。しかも若い頃にいろんなことを学んだと思わせる記述が『論語』にはある。 偉大な人物の修業時代は多くの場合は若い頃である。若い頃に格物致知という中国的な知的な修行を積んでいたと推測できる。 格物致知の出典である『大学』の該当箇所が恐らく孔子の遺言ではないか、と私が推測するひとつの根拠となる。それは孔子自身の体験である。
孟子も修行をしていた形跡がある。『孟子』公孫丑章句上に孟子の次の言葉がある。
書下し文
我善く我が浩然の気を養う。
現代語訳
私は広々とした気を養っている。
若い頃に広く多くを学んだ孔子と「浩然の気を養う」という孟子は一見共通点がないようだが、 中国的な修行をつんで精神を開発したという点は共通している。
さらに孔子も孟子も性善説をとっている。これが二人と有効な修行を経験している証拠になると思う。 我々平凡人は「人間は善と悪が半々くらいだよな。」と思う。しかしおそらく有効な修行を積むと、人間の本性は本当は善なのだ、と気づくに至るのだろう。これが性悪説、人間の本質は悪であるという立場をとる荀子との大きな違いだ。荀子は正しい修行を行えなかった人物だと考えられる。荀子に関しては後述する。
よく「この社会制度は甘い。性善説に立って考えられているからだ。悪い人間もいるという前提に立って物事は考えなくてはならない。」と言われることがある。その指摘は正しい。悪い人間は間違いなく存在する。人間本性が善というのは有効な修行を行える人にのみ立ち現れてくる真理であるからだ。それでは聖人以外は性善説は当てはまらないかと言うとそうとも言えない。普通の人は善悪半々であり、善なる本性は存在するが半分眠っているのである。
ここで述べたかったのはひとつは性善説が儒教の正統思想であるという点。 もう一つは物事の根本をさかのぼると「天」に到るという点。 儒教は「徳」が物事の根本と説くが、すでに述べたように天が実は最も根本である。そして天が与えたのが人間本性。 「天の命ずるを性という」とあった通り「天→人間本性」となる。 「性に従うを道という。」とあった通り人間本性に従うのが道である。道に従って徳を養う。「天→人間本性→道→徳」となり天が最も根本であると言える。 以上を押さえたうえで本末に戻って論述を進める。
つづき礼と仁■上部の画像は葛飾北斎
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