力の戦いと正義の戦い

シスさんの実況Part61。

3:46~。
ラーサーとヴェインの会話。
ラーサー「おやめください!彼らは降伏したんです!」
ヴェイン「せめてもの手向けだあの世からも見えるだろう。」
ラーサー「兄上!」
ヴェイン「撃て。」
ラーサー「なぜ・・。」
ヴェイン「降伏しても無駄と知れば反乱軍はこの戦いにすべてを懸ける。それを正面から叩き潰す。」
ラーサー「それでは人々が兄上を憎むだけです。」
ヴェイン「許しても再び反乱を企む。」
ラーサー「僕はそう思いません。手を取り合う未来を信じます。あなたは間違っている。」
ヴェイン「ならば私を正す力を身につけるのだな。」

シスさんの「なんか、こっちが力を欲し始めたんだけど・・」という言葉は印象的。
アーシェが力を求め続けたのも同じ理由。
シスさんの言葉やアーシェの行動はよく分かる。
なぜならヴェインの「ならば私を正す力を身につけるのだな。」という言葉が真理の一端をあらわしているから。

力がないと正義の実現は難しい。
特にFF12の世界観では力がないと正義は実現できない。
それが痛いほどに身に染みているアーシェはなりふり構わず、良き力も、悪しき力をも求め続ける。
これもFF12のテーマのひとつ。

しかし振り返って現代日本においてはどうだろうか。
正義の実現のために我々は力に訴えるだろうか。
そうはしないはずだ。
私が誰かとなにか争いになった時に剣や魔法で対決したりはしない。
それは現代日本で特に国内の争いに関しては、法の支配が貫徹しているからだ。
我々は争いにおいて剣や魔法に頼らず、法的な手段とくに裁判によって決着をつける。
裁判で自分の主張を確認し、その証拠を集め、論理だてて自分の正しさを主張する。

FF12では争いごとは最終的に力で解決される。
ヴェインの「ならば私を正す力を身につけるのだな。」という言葉がFF12の世界では真理の一面をあらわしているのだ。
力による争いである。力によってどちらが正しいかが決まる。

FF12と現代社会が違うのは法の支配が貫徹しているかどうかである。
法の支配が貫徹していないFF12では争いは力による争いになる。
力によってどちらが正しいかが決まる。
FFVIIで主人公クラウドたちがラスボスのセフィロスと戦って勝つのは、クラウドたちがセフィロスより正しかったという証明になっている。
FF12でヴァンたちがラスボスのヴェインに勝つのはヴァンたちがヴェインより正しかったという証明である。

しかし現代日本の国内問題では法の支配が貫徹している。
だから争いごとで両当事者は自分の主張の正しさを証明することで争う。
力の争いではなく正義の争いになる。
正義は自分にあるということを証明する争いだ。
正義の実現には法の支配が必要だ。
法の支配が力の争いを正義の争いにかえる。
人の支配を法の支配にかえる。
だから我々はアーシェのように力に飢えなくて済んでいるのだ。

昔裁判の傍聴に行ったとき、ある若い女性が以前に勤務していた会社を訴えていた。
勤務中に重いものを運ばされたらしく腰を痛めて長期入院になったらしい。
それで損害賠償で会社を訴えていた。
相当つらかったらしくそのつらさはその女性の答弁にはっきりと表れていた。
会社側も誠実そうに弁論の前に裁判官に一礼するなどしていたが裁判官は終始原告の女性側に共感していた。
会社側の作られた誠実さより女性の溢れてくる誠実さが勝っていたのだ。
法の支配が貫徹し正しい裁判が行われれば、正義さえ自分の側にあれば、一市民でも大企業に対等以上に戦える。
法の支配は本当にありがたいものなのだ。

ただ国際社会では国内法のようなしっかりした法はない。
国際法はあやふやだし強制力もない。
だから現代では国際問題において国には力としての軍事力は自衛のための最終的な拠り所として必要なのだ。

憲法9条改正の議論で弁護士の人にけっこう護憲派が多い。
弁護士は日頃法に基づいて正義を戦わせているのであって武力は不要と思うだろう。
しかしそれは法の支配がある場合であって、国際問題においてしかも企業ではなく国家同士の争いの場合は法の支配は現状では貫徹していない。
国家間の争いは国内問題とは状況が違う。

もっともFF12のようなRPGで争いが法によって解決したら面白くない。
例えばクラウドたちがセフィロスと法的手段で争ったりするのは何か違う(笑)。
クラウドたちが裁判のために証拠集めするゲームはプレーしたくない。
ヴァンたちがヴェインと裁判で争い勝訴判決をもらってガッツポーズをしてエンディングへ、となったらそれは「なんか違うんだけど・・・」と我々は思う(笑)。 それだとRPGではなく弁護士ゲームになる。
RPGは剣や魔法で戦うから面白いのだ。

逆に日本国内の現実世界で争いが起きるたびに剣で解決されたらいい迷惑である。
このへんはゲームと現実の違いだ。
ただ昔は日本でも西洋でもどちらが正しいかを決闘によって、力によって決めていた時代はあると言う。
決闘で勝ったほうが正しいとされた。

続きはバッシュとガブラスをご覧ください。

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