まとめ

近代哲学は神から距離を置き、その代わりに人間理性を信じることでニヒリズムへの第一歩を踏み出したと言えるかもしれない。現代人の中にはその人間理性すら否定しようとする人もいる。ニヒリズムである。

現代哲学の一分派である現代英米分析哲学はニヒリズムを叫ばない。しかし分析哲学は何も目的を持たず、ひたすら正確な推論を追及することで、ニヒリズムを体現している。分析哲学もやはりニヒリズムに陥っている。分析哲学は近代哲学が最終的にニヒリズムに至った末期的状態と言える。分析哲学では、半ば冗談ではあるが、分析哲学に興味を持つのは病気みたいなものだと言う。大学院に進学するのを「入院」と呼んでいた。古代ギリシャ哲学を勉強するために大学院に入るのは健康だが、分析哲学のために大学院に入るのは病気だというわけだ。

分析哲学が後世に残る哲学になるかは不明だ。著者がはるか昔の人でその著作が古典として現在でも評価されている書物は大雑把に言って正しい傾向にある。しかし最近の思想はまだその正しさは証明されていない。全部歴史から消える可能性もある。

私が試みたいのは科学理論を哲学に応用する方法だ。現代では複雑系の応用である。正しく複雑系を応用できれば、単に推論の正確さを追求する哲学でもなく、偉大だが正しいかどうかわからん思想ではなく、地に足の着いた中身のある思想が展開できる気がする。

思想は理論的にはどうしても科学の後を追う。物理学より数学が先行するように、思想より科学が先行する。プラトンの思想より幾何学が先行し、近代哲学は近代科学から影響を受けたように、現代哲学の構築には複雑系の応用が鍵になるかもしれない。

正しい意味での現代思想はいわゆる「新しい中世」になるのかもしれない。神も理性も否定するのではなく、合理性とインスピレーションの両方を信じる思想。単に中世に戻るのでは決してない。近代思想の成果を受け継いで合理性とインスピレーションの正しい中庸をとる。

天才論で述べたが、天才には合理性とインスピレーションの両方が必要である。同様に正しい意味での現代哲学も合理性とインスピレーションの両方を重視するという形になる可能性がある。もしそうなれば結局「中庸」という当り前の結論になる。儒教的解決である。

堺屋太一によると世界の歴史は精神性優位、インスピレーション優位の時代と物質性、合理性優位の時代を繰り返すと言う。始代においてはインスピレーション優位である。日本で言えば『古事記』の時代。中国から合理的思想がはいってきて合理性優位の古代が始まる。仏教思想が勃興する中世はインスピレーション優位。西洋思想が入ってくる近代は合理性優位。

西洋では歴史以前の時代が始代。ギリシャローマの時代は合理性が発展した古代。中世においてはキリスト教が支配しインスピレーション優位。近代以降合理性優位になる。E.H.カーの『危機の二十年』に次の言葉がある。

理想主義と現実主義の対立は天秤のように均衡を得ようとして常に揺れており、あるいは均衡に近づこうとしあるいは均衡から離れようとするが、完全には均衡に達することはない。

合理性とインスピレーションの両方が重要であり正しい意味での中庸をとる必要がある。上記の引用では「均衡」がその中庸だ。天秤が均衡からずれて右に傾き、右に傾き過ぎたら再度徐々に左に傾き始める。均衡という中庸にあるいは近づきあるいは離れ、常に均衡を中心にしながら揺れ続けるように、人類の歴史を見ると合理性とインスピレーションの間を揺れている。中庸を中心として揺れながらバランスをとるのが肝心だと分かる。

神について考察する時に必ずつきまとう問題がある。それは我々人間には神の全体像が把握できないという点である。だから神が存在するかどうかの私の確信度も「6:4」くらいになってしまう。神が再度存在の次元に顕現することがあるのかは分からない。

ニーチェは「神は死んだ」と言う。しかし雲にさえぎられても太陽は雲の背後にいるように、神は死んだのではなく雲隠れして沈黙しているだけかもしれない。密教の根本経典である『大日経』の解説書の『大日経疏』から引用する。

書下し文
重陰昏蔽して日輪隠没すれどもまた壊滅するにあらず。

現代語訳
雲が重なり空を覆って太陽が隠れても太陽が滅びたのではない。

間違った科学主義の議論によって神を信じることができなくなっても神が死んだのではない。存在し続けている。さらに引用する。

書下し文
猛風雲を吹けば日光は顕照するもまた始めて生ずるにあらず。

現代語訳
猛風が雲を吹き払えば、太陽の光が明らかに照らすが、その時初めて太陽が生じたのではない。

誤った科学主義が論破されて人々が神を信じるようになっても、それにより神が初めて生まれたのではない。最初からいたのである。

書下し文
無明煩悩、戯論の重雲のために覆障せらるると雖も、減ずるところ無し。

現代語訳
無知や煩悩、間違えた議論という厚い雲のために覆い遮られても減少することはない。

人間の無知や欲望や間違えた議論で人々に神が見えなくなっても、神の価値はほんの少しでも減少するわけではない。

書下し文
諸法実相の三昧を究竟すれば円明は無際なれども増すところなし。

現代語訳
存在するものの真実の姿の瞑想を徹底すれば、みごとで完全なことは際限がないが、それで増すことはない。

人々が神を信じ神を讃え正しい瞑想をしたらそれは素晴らしいが、それによって神の価値がほんの少しでも増すわけではない。

ショーペンハウエル『哲学とその方法について』から引用する。

曲学邪説というものは、間違った見解にもとづいて抱かれたものであっても、また卑しい意図から生じたものであっても、いつもある特殊な状況を当てにしているものであり、従ってある限られた期間しか通用しえないものである。ひとり真理のみが、たとえしばらくは認められずあるいは息をふさがれても、あらゆる時代を当てにすることができる。なぜなら内からほんのわずかの光が射し、外からほんのわずかの風が通ってきても、ただちに誰かが現れて、真理を告知しあるいは擁護するからである。すなわち真理はどれか一党派の意図から発したものではないから、いかなる時代にも、優秀な頭脳の持ち主はそのための闘士となる。けだし真理はいかなる時、いかなる場所でも、絶対に定まった世界点を指す磁針のごとくであり、これに反して邪説はその手でもうひとつの石像を指している石像のようなもので、いったんこれから切り離されるとあらゆる意義を失ってしまうのである。

現代を覆うニヒリズムも邪説のようなものであって、一時的には通用しても、時代が過ぎれば「あらゆる意義を失ってしまう」のかもしれない。恐らく古代ギリシャのソフィストのようになると思われる。当時一世風靡したが最終的にはソクラテスに克服される存在としてのみ意義を持つ。

『ユダヤ人の歴史』という本の冒頭に次の言葉がある。

現代の寓話

ニューヨークの地下鉄駅の落書きに曰く
「神は死んだ」 ―― ニーチェ

誰かがその脇に書いた
「ニーチェは死んだ」 ―― 神

神が存在の次元に姿を現しこの言葉が現実のものになるかはいまだ定かではない。

以上で「神は存在するのか」を終えます。読んでいただいた方々ありがとうございました。

■2023年12月31日付論精神的世界観を失った現代人


■このページを良いと思った方、
↓のどちらかを押してください。



■スピッツ『運命の人』

■上部の画像は熊谷守一「ノリウツギ」



■作成日:2023/03/10

■関連記事