神の存在証明の妥当性

今回書く内容は多くの人にとってはあまり面白くないかもしれない。私は思想系の記事を書くがそれを車の運転にたとえる。私が好きなのは車を運転したことない人に運転の方法を伝えることだ。思想の面白さを伝えること。しかし今回の内容は車にたとえればエンジンの構造を分析しどうすればエネルギー効率がよりよくなるかの分析だ。要は哲学プロパーの問題。哲学の専門家しか興味を持たない内容になると思う。

しかもかなり理解が難しくなる可能性もある。なるべく分かりやすく書くが、分からなくても無理に分かろうとしないでいい。努力の割には得られる内容は少ないと思う。分からなければとばしていただいたほうがいいと思う。

今回は神の存在証明が妥当かどうかの検討である。現在は行われないがヨーロッパ中世や近代の中頃までは神の存在を論理的に証明することが行われていた。スピノザの証明を中心に検討する。最近はこの論証は行われないので検討する必要があるかは微妙だができるだけ神の存在についての論拠はたくさん検討したいので一応書いておく。

今回の内容は私が大学に在学中に書いた小論がもとになっている。大学時代に書いた論文はほとんど捨ててしまったが、ひとつだけたまたま部屋の奥から見つかったのでそれをもとに書いていく。昔の論文を読んでみると昔はこんな哲学プロパーな文章も書いていたんだなと思う。半分なつかしいような半分醒めたような眼で見てしまう。

スピノザの『エチカ』に神の存在証明がある。引用する。

定理11 神、あるいは各々が永遠無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体は必然的に存在する。
証明 これを否定する者はもしできるなら神が存在しないと考えよ。そうすれば公理7よりその本質は存在を包含しない。ところがこれは定理7より不条理である。故に神は必然的に存在する。

読んでも何のことか分からんと思う。分からなくていい。分かってほしいのはスピノザの証明の内容というより証明の方法である。公理7と定理7が証明の根拠として出てくるがそれも引用しておく。

公理7 存在しないと考えられえるものの本質は存在を包含しない。
定理7 実体の本性には存在することが属する。
証明 実体は前定理の系より他の物から産出されることができない。故にそれは自己原因である。すなわち定義1によりその本質は必然的に存在を包含する。或いはその本性には存在することが属する。

内容は分からなくていい。ここで確認してほしいのはスピノザの論証方法である。定義や公理を最初に掲げてユークリッド幾何学のようにそれらから定理を演繹していく。数学的証明。その方法を確認してほしい。

内容は分かりやすく私が言い換える。スピノザ以前から似たような神の存在証明はあったようだが、簡単に言うと次の通りになる。「神は絶対である」→「神は存在という性質も持っている」→「神は存在する」となる。神は「絶対」だから存在という性質も持っており、その定義から「神は存在する」が導かれるというのだ。神は定義からして絶対的なのに、存在という性質をもっていなかったら絶対ではなくなるというのだ。

明らかに詭弁だが当時は信じられていた。私は神を信じる人の気持ちが分かる。信じない人の気持ちもわかる。神を信じる人はこの論証に恐らく納得する。しかし神を信じない人からしたら詭弁である。

例えば花Aを次のように定義する。「花A」=「赤くてかつ赤くない花であり札幌のXという庭園に存在する花」。「赤くてかつ赤くない」と言うのは矛盾律を想定している。コトバンクから引用する。

矛盾律。ある命題「この花は赤い」とその否定命題「この花は赤くない」が同時に成り立つことはないという論理法則。

「ソクラテスは人間である」と「ソクラテスは人間ではない」が同時に成り立たないと言うのが矛盾律だ。花Aは「赤くて赤くない花」であるから矛盾律からしたらそのような花は存在しないはずである。しかし定義から「赤くて赤くない花」は札幌に存在すると証明できる。 この方法ならどんな物の存在証明もできてしまう。神の存在証明も同様である。

西洋哲学で"word"=「単語」レベルでは真偽が問えず、"sentence"=「命題」「文」になってはじめて真偽が問えるという考えがある。要は「ソクラテス」という単語だけでは真偽は問えないが、「ソクラテスは人間である」という文になってはじめて、それが正しいかどうかの真偽が問えるというのだ。

しかし花Aのようにその定義に矛盾が含まれる単語の取り扱いはどうすればいいかは議論の余地がある。さらに「存在する」というキーワードが含まれる場合、明らかに正しくない内容を証明できてしまう。

要は言葉を定義した段階でその言葉に何かしら思想や洞察を潜ませることは可能である。スピノザの色々な言葉の定義にスピノザのさまざまな思想や洞察が含まれている。スピノザの「数学的証明」は「スピノザの洞察が正しければ何が結論として帰結するか」を証明しているに過ぎない。

もちろんスピノザが偉大な哲学者であるのは論をまたない。主著『エチカ』を読むとその偉大な洞察がひしひしと伝わってくる。私が言いたいのはスピノザの主張の内容ではなく、その数学的証明というスピノザの手法に十分な妥当性がないと言いたいだけである。スピノザの思想の内容を批判したのではない。

さらに言うと私は神が存在しないと主張しているのでもない。神の存在をスピノザ的な方法で証明するのに反対しているだけである。

続きは宗教と科学の不整合をご覧ください。

■Chopin Waltz 6


■上部の画像はルオー

■このページを良いと思った方、
↓のどちらかを押してください。




■作成日:2023/1/30


■関連記事