精神的世界観を失った現代人

世界には上位概念と下位概念があると述べた。古代人は素直に素朴に世界を見た。だから彼らはある程度物事の上位概念を見ていた。しかし近代科学勃興以降、我々は下位概念を見て上位概念を見なくなった。D.E.ロレンスの『黙示録論』から引用する。科学的世界観から捉えた物質的宇宙を彼はユニバースと呼び、古代人がとらえた精神的宇宙をコスモスと呼ぶ。ユニバースが下位概念でありコスモスが上位概念である。

コスモスは真に切実な存在だったのである。人間はコスモスと共に生き、それが自我よりも偉大なものであることを知っていた。古代文明の世界が太陽を仰ぎ見たのとおなじように吾々もそれを見ているなどと考えたら、それこそとんでもないまちがいである。吾々が眺めているものは、たかが燃焼するガスの球体にまで縮小せられてしまった科学的小発光体にすぎない。エゼキエルやヨハネの生まれるまえ数世紀の間、太陽は依然として荘厳な実体であり、そこから人々は力と光輝とを汲み出し、またそれに礼賛と光栄と感謝とを返納していたのである。しかし、吾々にあっては、この連関はついに絶たれた。感応の中心が死滅してしまったのである。吾々の太陽は古代人のコスモス的太陽とはまったく異なったものであり、はるかに価値低き存在である。たしかに吾々も太陽と称するものを眺めてはいるが、かのヘリオスは永遠に失われてしまったのだ。いわんやカルデア人のいう偉大な球体など求めうべくもない。コスモスとの感応的連関から脱落してしまったために、吾々はコスモスを失ったのである。これこそ吾々のもっとも切実な悲劇でなくしてなんであろう。かのコスモスと共に生き、コスモスに祝福されていた古代人の壮大な生活に比べるとき、吾々の口にするけちくさい自然愛とは ――しかも、大文字にして崇める大自然とは!―― 一体なにものであろうか。

古代人は太陽にコスモスと言う荘厳な精神性を見ていた。上位概念を見ていた。しかし現代の我々にとっては太陽は水素原子が核融合してヘリウム原子にかわる科学的発光体に過ぎない。下位概念しか見えないのである。

例えば我々が高級寿司を食べるとする。鯛の握りを食べる。非常にうまい。そこに日本文化を感じる。これは素直な寿司の食べ方である。古代人の太陽を見る方法はこれに近い。素直に食べるとその鯛の握りから我々は日本文化を感じる。同様に古代人は太陽に荘厳なコスモスを感じる。

しかし近代科学の勃興でコスモスは失われた。科学は物事を分解して考える。太陽をその構成要素に分解して、その発光を水素原子からヘリウム原子への核融合であると分析する。鯛の握りでいうと、それを全体として食べずに、下位概念である鯛の切り身、白米、酢、醤油、わさびに分解して別々に食べる。分解して食べる。すると鯛の握り全体において上位概念として創発していた「日本文化」は消えてしまう。我々はそこに日本文化を感じることができなくなる。現代人が太陽にコスモスを感じえないのと同じである。

チーズバーガーも同じだ。チーズバーガーを素直に食べると全体としてそこにアメリカ文化を感じる。しかしパン、肉、チーズ、オニオン、ピクルス、ケチャップ、マスタードと分解して別々に食べると我々はそこにアメリカ文化を感じられなくなる。

『最強組織の法則』という本に次の言葉がある。

問題にぶつかったらばらばらにするんだ。世界を細かく分解すればいい。―― 幼いころからわれわれはそう教えられる。これで複雑な課題やテーマも一見取り組みやすくなる。しかし、その裏にひそむ莫大な代価をわれわれは支払うことになるのだ。なぜなら、行動のもたらす結果をもう予測できないからである。つまり、より大きな統一体とつながっているという実感が失われてしまうのだ。そこでわれわれは「大局を見よう」として、頭の中にある断片を寄せ集め、全部のかけらを項目に分け、意味あるまとまりをつくろうとする。しかし、それはむなしい。割れた鏡の断片を寄せ集めて正しい映像を見ようとするようなものだから。こうして、やがて人は全体を見る努力をすっかりあきらめてしまう。

科学は問題をばらばらにし、世界を分解して理解する。しかしそれにより統一性が失われる。断片をかき集めてもそれは「割れた鏡の断片を寄せ集めて正しい映像を見ようとするようなものだ」という。ばらばらにすることでコスモスは失われる。それら断片を寄せ集めてもコスモスは復活しない。

ばらばらに分解する思考は自然科学だけに支配的な考えではない。思想や歴史などの分野でもそのような思考はある。思想や歴史でも人文「科学」という名目のもとインスピレーションを主観的なものとして排除し厳密な客観的論証に終始する人は多い。もちろん客観性は大切である。主観的なインスピレーションは事実と論理と言う客観性によって地に足がつかなくてはならない。しかし主観的と言われるインスピレーションを排除したら思想は理解できない。

歴史でも同じかもしれない。私は『三国志』の諸葛孔明の研究を一時していたが、一昔前の日本の研究者である植村清二氏や宮川尚志氏の研究が現在の研究者に比べて面白いのは、昔の日本の研究者が人文「科学」にあまり毒されていないからだろうと思う。インスピレーションと合理性の程よい中庸が執れているからだ。

思想は合理性とインスピレーションの両方を持たないと理解できない。例えば中国思想でも何十年も勉強していて細かい知識をもっているが、中国思想の本質を理解していない人はたくさんいる。恐らくそういう人は人文「科学」者でありインスピレーションを排除していると思われる。寿司でいうと分解して食べるひとは材料に詳しいが日本文化を理解しない。それと同じである。

逆に中国思想を勉強しはじめてそんなに長くなく知識もそれほどでなくても、中国思想の本質をある程度捉え生きた思想が育っている人も確かにいる。そういう人は素直に寿司を食べて感動している人と同じである。

人文「科学」として思想を研究する人たちは死んだカエルを解剖する人たちのようである。生きた思想として思想を学ぶ者は生きた犬とたわむれる人たちのようである。

もちろん客観的な研究が進むのは進歩である。寿司でいうと昔の人は寿司を食べるがそれが鯛なのかハマチなのかトロなのかよく分からずに食べて、「うまいなあ!!」と言っている人のようである。日本文化を感じているが細かいところはわかっていない。現代人は材料にやたら詳しいが食べてもうまいと思わない。しかし寿司のおいしさと日本文化を理解すると同時に材料についても理解したほうがもっと良いに違いない。客観的研究が進むのは進歩である。

古代人は精神性を理解していたからと言って古代人の思想が全部正しいわけでもない。古典のような正しい思想もあるが、それを曲解したような間違えた思想も多い。迷信もたくさんある。寿司でも本当においしい寿司とまずい寿司がありうるのと同じである。

どれが迷信でどれが真実かは専門家の間でも一致しない。歴史上に残る偉人たちの間でも一致しない。ある程度は一致する。が、最終的には一致しない。どの寿司店がすぐれた寿司なのかが、寿司を究めた人たちの間でも必ずしも一致しないのに似ている。

あと古典のような正しい思想も細かいところは間違うことがある。例えば旧約聖書には預言書という書がある。預言者という神から語りかけられた人が、神の言葉も含めて内容を書き留めた書物と言われる。預言書について『旧約聖書の誕生』から引用する。

これらの文書は単純な意味での歴史書ではない。つまり歴史上の出来事を正確に記して伝えることを目的として書かれたものではない。考古学上の研究などが進むと、これらの文書の記述がかならずしも実際の出来事と一致しないことが見出されたりする。しかしこれらの文書を預言書に含める立場からは、こうしたことはあまり重大な問題にはならない。著者は事実を正確に伝えることを任務としたリポーターではない。出来事の意味を示そうとする預言者である。
預言者の書物は、伝承に伝えられていた出来事がいかなる意味で神のメッセージなのかを示すものである。出来事そのものを語ることよりも、その出来事が何を意味するのかを示すものである。長い年月の間それらの出来事は語られ、考察されてきた。新しく展開する歴史的状況の中で新しい神のメッセージをもたらすものと考えられたからである。

寿司の例でいうと、高級寿司店でブリの握りが出たとする。板前さんが「ハマチです」と言って客に出す。ご存じの通りハマチが成長するとブリになる。その寿司屋で出てきた握りは成長した後なので「ブリ」であって「ハマチ」ではない。だから板前さんは間違えている。しかしだからと言ってその高級寿司店の価値が下がるわけではない。高級フランス料理の店のメニューの記載に悪意のない間違いがあったからと言ってその店の価値が下がるわけではない。

預言書において「著者は事実を正確に伝えることを任務としたリポーターではない」とある。寿司の板前さんは魚の分類学の知識を伝える学者ではない。預言書の著者は「出来事の意味を示そうとする預言者である」とある。寿司の板前さんは寿司のおいしさを伝えるのを目指す人である。

魚の分類の知識が何より大切だと思い、そして寿司のおいしさを理解しない人がその場所にいたら、「この寿司屋は最悪だ」と言うかもしれない。現代のわれわれは科学的知識や客観的な歴史学的知識のみを大切と思い、聖書の精神的価値を理解しない。だから「聖書はうそばっかりだ」と言う。聖書の精神的価値を理解する人は、「たしかに間違いはあるがその精神的価値が下がるわけではない」と言う。

しかし聖書を深く信じる人の中には「いや、聖書に間違いは全くない」という人もいる。それは別の意味でよくないと思う。間違いがある以上間違いがあると指摘するのは正しい。しかしそれで価値が減るわけではないと考えるべきである。

私はいろんなところで真理をとらえることの重要さを述べている。真理をとらえるときによくある落とし穴がある。ひとつは合理性を無視しインスピレーションに流れることであり、もうひとつは合理性に固執しインスピレーションを排除することである。中庸をとることで本質を捉えることができる。

どの程度が正しい中庸なのかは分野によって違う。数学であればインスピレーションも必要だがそれ以上に高度な合理性が求められる。しかし画家であれば、たしかに他人に感動を伝えるに足る絵画的手法という合理性は必要だが、それ以上にインスピレーションが必要だろう。その分野やその人の個性に応じたバランス型中庸をとることが大切である。現代では合理性に固執して真理をとらえきれない人が非常に多い。

私はこの点に関してはバランス型中庸ではなくハーモニー型中庸を目指している。まだ十分ではないが研鑽を積みたい。

■作成日:2023年12月31日


■上部の画像は葛飾北斎

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