感想 後半

大学在学中は自分がつくった論を徹底的に叩くというのをやっていた。自分で自分の論を徹底的に崩すのである。そうすることで自分の論の欠点や足りない点がたくさん見えてくる。そうやって自分の論を徹底的に改善し鋼のように鍛えていた。他人に厳しく自分にはもっと厳しくしていた。自分の意見より真理に従い、教授の意見より真理に従い、先人の意見より真理に従うのがモットーだった。若かったので中庸とか考えず徹底していた。現在はそれはしない。それは若干不健全な感じがする。欠点を矯正すると場合によっては長所まで失う可能性がある。それに昔ほど尖っていない。

しかし現在でも十分な論拠をもって論文を書いた場合、自分の知らないところで知っている他人や知らない他人の持論を徹底批判していることがある。読んでいただければわかるが、そんなに過激な内容を主張しているわけではない。むしろ中庸を重んじる常識的な内容だ。挑発的な表現をしているわけでもない。むしろ淡々と理性的に表現している。

しかしSNSでも最初仲良くても必ず険悪になる。そうなると最初から分かっているので最近は思想の友達はつくらない。他人の足を踏まずに歩くことはできない。だからと言って歩くことをやめるわけにもいかない。私の文章を嫌いだと言う人はいる。でも嫌いなら読まなければいいと思うので、気にせずどんどん書いていく。

現在でも自分の論に弱点がないか、ある程度は常に注意して見るようにはしている。今回の論は暫定的な結論でありまだまだ欠点は多い。崩せるかどうかは分からないが疑問を提示することはできる。

例えば前々回に人間の神による創造と進化論の問題を、部屋の蛍光灯をつけることにたとえた。蛍光灯をつける原因を次のように説明できる。

説明A:暗かったので蛍光灯をつけて明るくしようと思ったから蛍光灯をつけた。
説明B:蛍光灯のスイッチに物理的圧力が加わり導線に電気が通って蛍光灯がついた。

どちらも正しい。「暗かったから」という説明Aは人間の出現に関して言うと『創世記』的な説明であり、「電気が通った」という説明Bは進化論的な説明である。前々回の文章を読んでほしい。

部屋の蛍光灯がつく過程は物理法則に従うため必然と考えていい。だから「蛍光灯のスイッチを押すことで蛍光灯がつく」とその人はあらかじめ知っている。だから蛍光灯がついたのはその人の意思が関与し目的に従っていると言える。

しかし進化の過程は突然変異が重要であり、突然変異は偶然の産物である。必然ではなく偶然。だから「人間という神の似姿であり真善美をそなえる生き物が進化するかどうか」はあらかじめ分からない。だから前もって意志が参与することはできず、目的に従っているとは言えないというわけだ。

この辺を他の人からつかれると返答ができない。それで論が崩れるとは思わないが、正しい返答ができないので聞かれたら「今後の課題ですね」と答える。

「神においては全ては必然だ。神に偶然はない。全知全能だからだ。」と煙に巻くことはできる。肯定も否定もできない、反証可能性がないことを言って煙に巻く。直観のみに頼って事実と論理に還元されない形で意見を言う。別に煙に巻くのが悪いと言っているわけではない。哲学というものは本来そのようなものだ。洞察に止まり地に足をつけようとはしない。私自身分かりやすく書くのにも限界があるので、私の文章がよく分からんと言う人からすれば私も煙に巻いているのだと思う。

哲学者は「神においては全ては必然」という直観的な言葉で納得するかもしれない。直観に根拠がないわけではない。私は「神においては全ては必然」で6割がた大丈夫だと思っている。しかし私は思想家の中では珍しく地に足をつけるのを目指したいので、そのうち科学を勉強して地に足の着いた論を展開したいと思っている。偶然と必然の本質、決定論と非決定論などそのへんが分からないと宗教と科学の理論的整合はできない。

そもそも人間の進化が突然変異と自然淘汰だけで可能なのかもわからない。生物の身体の仕組みの驚異的な精巧さを考えるとどうしてもこれが突然変異だけで進化し得るとは考えづらい。たとえ何十億年かけてもである。ある本で突然変異と自然淘汰だけで生物が進化するのは、猿を部屋に閉じ込めて、パソコンのキーボードをランダムに打たせて、結果としてシェイクスピアの作品ができるようなものだと言う。

複雑系には「自己組織化」という考え方がある。wikipediaから引用する。

自己組織化とは物質や個体が、系全体を俯瞰する能力を持たないのに関わらず、個々の自律的な振る舞いの結果として、秩序を持つ大きな構造を作り出す現象のことである。自発的秩序形成とも言う。

この自己組織化という考えを導入すれば、生物の身体という驚異的な仕組みが進化してきたと言うのも納得ができる。しかし現在の私には自己組織化の科学的な性質が分からないので、それに対する正しい神学的解釈もできない。

今回の論では複雑系の考え方をアナロジーにより宗教に適用した。比喩である。比喩は分かりやすさが目的で正確ではないと述べた。それは逃げである。本当は正確な比喩を提示しないといけないからである。比喩である以上不正確さは免れないと言うかもしれない。その通りだ。しかし比喩が正確になり完全に正確になると、もはやそれは比喩ではなく正しい理論になるのだろう。本来それを目指すべきなのである。

そもそも比喩ほど当てにならないものはない。分かりづらいAを分かりやすいBに喩える。すると非常に分かりやすくなる。しかしAとBはそもそも違う。なのに「同じ」という印象を与える。その時点で、すでに誤誘導が発生している。書く側も読む側もその比喩の分かりやすさに眩惑されて「なるほど」と思い、AとBを同一視し誤誘導と気づかない。その比喩が分かりやすければ分かりやすいほど誤誘導されても気づかなくなる。

先ほど述べた「突然変異と自然淘汰だけで生物が進化するのは、猿を部屋に閉じ込めてパソコンのキーボードをランダムに打たせて、結果としてシェイクスピアの作品ができるようなものだ」というのも比喩である。非常に分かりやすい。しかし正確ではない。進化と猿のキーボードの話は別である。分かりやすいので正確じゃないのに「なるほど」と納得し同一視してしまう。キーボードをランダムに打つというのは「突然変異」を表している。しかし猿がたまたま書いた優れた文章は生き残り、猿が書いたダメな文字の羅列は消えて「自然淘汰」されるという説明も必要なはずである。進化には「突然変異」と「自然淘汰」の両方が必要だから。さらに進化では、例えば生命の原型である「自己複製する分子」が登場し、それがどんどん自己複製して1億個現れたら、自己複製する分子が1つだけの場合より1億倍のスピードで進化が進むかもしれない。要は猿が1億匹になるのだ。その辺の説明もこの比喩には書いていない。明らかに誤誘導だ。比喩は分かりやすくするために必要だ。無意味でもない。しかしあまりあてにならないのである。

自分の論を今後補強していくために自分自身であらさがしを軽くしてみたが、結局今回の比喩による論は十分に地に足がつかないものだと分かるだろう。ちゃんと検討してないが、比喩による誤誘導の線でいくと有効な反論は出来るかもしれない。論が十分ではないのは、科学の勉強が足りないからである。科学の知識と理論の本質を捉えてそれを宗教に応用する必要がある。重要なのは現象を追うのではなく本質を捉えることだ。科学の現象をつかまえても宗教に応用できない。科学の理論の本質を捉えれば宗教など他の分野に応用が可能だからである。

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作成日:2023/3/6

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