聖書と科学は矛盾するか 前半

聖書と科学は矛盾するか。聖書と科学は少なくとも一見矛盾する箇所がいくつかある。それを今回と次回で検討していく。一番有名なのは人間の創造を巡る矛盾である。聖書では人間は神の似姿に創造された、と言われる。ダーウィンの進化論では人間は進化によって猿から人間になったという。この点が相互に矛盾する。矛盾の争点はひとつは「神の似姿」をめぐる意味であり、もうひとつは目的をもって創造されたとする聖書に対し、進化論は偶然によって発生したとする点である。今回は「神の似姿」の解釈について論じる。一応『創世記』の第1章24節~31節の神の創造の第六日目を引用する。

神は言われた。
「地はそれぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」
そのようになった。神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの地を這うものを造られた。神はこれをみて良しとされた。神は言われた。
「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
神はご自分にかたどって人を創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。
「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
神は言われた。
「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」
そのようになった。神はお造りになったすべてのものをご覧になった。みよ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。

「神はご自分にかたどって人を創造された。」と言う箇所が神が人間を「神の似姿」に創造したと言う記述である。どのようにして造ったかについて『創世記』第2章7節を引用する。

主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きるものとなった。

人間を「土」から造ったというのは我々には違和感がある。しかし聖書は別に本当に「土」から造ったとは言っていないはずである。我々の今日の言葉で言えば「物質」から造ったということになるはずだ。現代の我々にとっては「物質」という抽象名詞で言われた方がよく分かる。しかし『創世記』の該当の箇所は非常に古い時代の伝承にもとづく。ヘブライ語の歴史に詳しくないが、おそらく抽象名詞は無かったのだろう。「物質」などという抽象名詞は無く、「土」という具象名詞で言われた方が当時のユダヤ人は理解しやすかったのだと思われる。

例えば日本語でも『古事記』の時代は抽象名詞はない。抽象名詞が現れるのは中国からたくさんの漢語が伝わった飛鳥時代以降である。さらに明治期に西洋から西洋語がたくさん輸入された時期以降だ。『古事記』の人たちに「物質」などという抽象名詞を言っても意味が通じない。具象名詞の「土」といえば恐らく理解するだろう。

英語を勉強する時、分からない単語は必ずwiktionaryで語源を調べるようにしている。英語も学問用語などの抽象名詞はほとんどギリシャ語、ラテン語経由である。英語のもとの形である古英語経由の単語は日常語に多い。英語ももとは抽象名詞はあまりなかったのである。

日本語と英語しか学ばない日本人には想像しづらいが、現代の言葉でも抽象名詞の無い言語はたくさんあるという。そういう言語は日常語としては機能しても、高度な学問は出来ないらしい。アジアなどの非西欧語のうち大学教育もできる言語は非常に珍しいという。日本語はそういう意味で非常に特殊なのかもしれない。西周たち明治の翻訳者たちがいなければ、私も日本語で思想を紡ぐことはできなかっただろう。

ここで「神の似姿」の話に戻る。「似姿」はヘブライ語で"tselem"、という。wiktionaryで検索すると"image"、"idol"とある。イメージ、偶像である。神の似姿に造ったとは外形的な見た目、物理的な形に似せて造ったという意味なのか、それとも理性を備え道徳をもち美を理解するという精神的意味なのか。"tselem"を具象的物理的な意味にとるのか、抽象的精神的意味にとるのかが問題になる。

ヘブライ語に詳しくないのでよく分からないのだが、少なくとも言えるのは、物理的な意味に解する人と精神的意味に解する人との両方がいたという点である。現代では恐らくほとんどの人が精神的な意味に解すると思われるので、「神の似姿」の解釈を巡って宗教と科学の間で特に意見の相違は無いのかもしれないが、宗教と科学の矛盾が生じうる非常に分かりやすい典型例なので解説する。

第六日目の記述を再度読んでいただきたい。「神の似姿」に造られたのは人間だけであって、他の動物は似姿に造られていない。要は人間だけ他の動物とは違い「神の似姿」に造られているのである。

人間が他の動物と違う点は何だろうか。身体的特徴だろうか。外見的な見た目だろうか。そうではないはずだ。身体は「土」から造られたのであって物質である。身体的には人間は他の動物とそんなに違いはない。人間が他の動物と決定的に違うのは真善美を理解する点である。理性を備え道徳を持ち芸術を創る。人間が他の動物を支配する点が他の動物とは違うという指摘もある。その通りだが、人間が他の動物を支配する根拠は人間が真善美を理解するからである。人間が他の動物を支配するのは人間が「神の似姿」に造られた結果である。人間が真善美を理解しなかったら他の動物を支配してはいけなかったはずだ。さらに現代的な環境問題を考える際には、人間が他の動物を支配するという思想はあまり現代的ではない。生類憐みの令には反対だが、どっちに傾きすぎてもいけない。ちょうどいい「中庸」があるはずだ。中庸から右にずれたら左の大切さが叫ばれ、左にずれたら右の重要さが主張される。

おそらく「神の似姿」というのは精神的に解すべきである。『創世記』の時代に抽象名詞が無かったのであれば、"tselem"も本来物理的な具象名詞のはずである。しかし本当は精神的な抽象名詞の意味で用いているはずだ。

しかし後世の人がこれを読むと次のような現象が生じる。後世の人は抽象名詞も知っている。ヨーロッパ中世の人はギリシャ語ラテン語起源の抽象名詞を知っている。しかし聖書を読むと具象名詞で書いてある。後世の人は、「抽象名詞もあるはずなのにわざわざ具象名詞で書いてあるから具象的な意味なのだろう」と思う。しかし『創世記』の時代には抽象名詞は無かったのだから具象名詞で書いただけで、その意味は精神的な意味だったりする。ここで誤解が生じる。

要は抽象的精神的な内容を述べるのに『創世記』では具象的物理的な言葉を用いる。精神的なことを話しているのに物理的に解釈されてしまう。複雑系的に言うと意味は精神的な上位概念を指しているが、言葉は物理的な下位概念を用いている。上位概念を話しているが下位概念として解釈される。

それで宗教と科学は一見矛盾する。宗教と科学の矛盾のかなりの部分はこのパターンの矛盾である。もちろん似非預言者がテキトーなことを言って間違えている場合もあるし、科学者が越権して宗教に関して間違えたことを言うこともある。しかしけっこうな割合で本当は矛盾しないのに矛盾しているように見える場合がある。

『創世記』の内容を上位概念と捉え下位概念としてとらえないことで矛盾しない。上位概念下位概念という複雑系的な考えについてはすでに詳述したので再度述べたりはしない。要は次元の誤解である。

たとえ話で説明する。南北に走る道路があり、車がたくさん走っている。東西に走る道路もあり、やはり車がたくさん走っている。この二つの道路は交差している。当然交差点で車の衝突が起きると思う。しかし実際には衝突しない。なぜなら南北の道路は東西の道路より20メートル高い場所にあるからだ。高さつまり次元が違うのである。

真上から見ると高さの違いが分からないので衝突すると思う。しかし実際には高さに違いがあるから衝突しない。同様に『創世記』の話を物理的次元と思うと明らかに科学と衝突する。しかし精神的次元と考えれば高さが違うので衝突しないのである。

命の木、知恵の木がエデンの園にあったというのも、物理的具象的な言葉を用いているが、それは当時のひとには具象的に話すのが分かりやすかったからである。文字通り具象的に解して本当にそのような木が存在したすると、そのような木は見当たらないので恐らく科学の知識と矛盾する。しかし精神的な意味と解するのであれば矛盾しない。

■2024年1月21日追記。

聖書を解釈する際に、聖書の字義どおりに解釈する方法と、比喩的に解釈する方法がある。「それは比喩に過ぎない」という言い方がある通り、比喩的と言う言葉には「それは現実ではない」というニュアンスがある。信仰深い人はそのニュアンスを嫌うのかもしれない。しかし正しい結論は、聖書は上位概念をさしているのであり、下位概念ではないという結論である。「比喩的解釈」というと「聖書の内容は下位概念ではない」という、正しい結論の消極的側面、「~ではない」という側面、を表せるが、「聖書の言葉は上位概念である」という積極的側面を表せない。

youtubeで高級中華料理のシェフが「鶏肉とカシューナッツ炒め」をつくっている。下ごしらえとしてカシューナッツを油で揚げるのだが、そのときカシューナッツが音を立てながら揚げられる様子を、シェフは「カシューナッツが喜んでいる」と表現した。これは比喩的表現である。もちろん文字通りにカシューナッツに心があって喜んでいるのではない。下位概念ではない。しかしそのように感じる料理人の直感は、おいしい料理を作るうえで大切な料理の真理の一端をとらえているはずである。上位概念である。

同様に聖書の内容も下位概念を必ずしも指すのではない。基本的には上位概念をさす。それは「現実ではない」のではなく、下位概念より高等な上位概念と言う真理を述べている。上位概念も下位概念と同じくらい、真理なのである。

■追記終り。

続きは聖書と科学は矛盾するか 後半をご覧ください。


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作成日:2023/2/24

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