聖書に間違いはないか

キリスト教など宗教を信じる人の一部は聖書に間違いはないと言う。聖書は神の言葉を含む聖典であるため一言一句間違いはないと言う。別の一部の人は逆に聖書は間違いだらけだと言う。

例えば『創世記』でノアは950歳まで生きたとある。ノアの洪水が起きた時、「水はますます勢いを加えて地上にみなぎり、およそ天の下にある高い山は全て覆われた。」とあり、聖書は一言一句間違いないとする人はエベレストも完全に水で覆われたという。

聖書に間違いがあるかどうかが、聖書を信じる人と信じない人を分断してしまう。聖書に一言一句間違いがないという主張をすると、聖書を信じない人は「うさんくさい」と思う。聖書を信じない人は「聖書を信じる人はうさんくさい」と言うので、逆に聖書を信じる人は「聖書を信じない人は大切なことを理解しない」と思う。両者は分断される。私は聖書に間違いがあるかを判断できる立場にはない。しかしノアが950歳まで生きたとかは信じがたいと思っている。

聖書に間違いがないと言う人の根拠は聖書は神の言葉を含むからである。しかし次のように考えることもできる。聖書は神の言葉を含むかもしれない。しかしその言葉を書き留め物理的に書物として書いたのは人間である。人間は不完全だから偏りがあり伝承ミスがあり間違える可能性がある。

神が人間に語りかける時、多くの人に直接語りかけるという方法をとらない。どうやって語りかけるかと言うと、ひとりの人を選んでその人に語りかけたり乗り移ったりする。そしてその選ばれた人が神の言葉を語る。神に選ばれて神の言葉を語る人を預言者と言う。モーゼ、イエス、ムハンマドなどの人々である。だからイエスやムハンマドの語った言葉には神の言葉が含まれる。例えば神がムハンマドに乗り移って語った言葉が『コーラン』である。

では『コーラン』は神が書いた書物と考えるべきかそれともムハンマドによると考えるべきかは議論がある。その点は井筒俊彦の『コーランを読む』に詳しい。長くなるが引用する。

ある意味では ―というのは、特にイスラーム自体の立場からすれば、ということですが― 神が『コーラン』の著者だといえるかもしれません。ただ、それにもまた問題があるのです。イスラーム的立場から見て、神のコトバではあるけれども、神が著者であるとははっきり無条件で言い切れない。なぜかといいますと、イスラームの信仰では、現に我々が手にしているアラビア語の『コーラン』は天にある、神のもとにある原簿そのものではないからです。天にある原簿、永遠の『コーラン』とでも申しましょうか、地上で我々の読むアラビア語の『コーラン』の母体です。これは天上にあるもので、人間は見ることも触れることもできない。イスラームの根本思想からいって、その天上の原簿までがアラビア語で書かれているかどうかは大いに問題なのです。

これぞ天啓の書。その文句はまず完全にととのえられ、次いで次第に解き分けられていったもの。あらゆることに通暁し、何事も見のがすことなきお方のお手もとから下されたもの。

と『コーラン』第十一章第一節に書かれております。いうところは、すなわち、この書物は天啓の書であって、まず天上でその文句が完全に書きととのえられたものだ、という。一切の世界過程に通暁した神のもとで、はじめから完全にできあがっている。これが永遠の原簿です。永遠の原簿は歴史を超越したものですが、それが歴史的時間の流れに入り、そこで「次第に解き分けられて」いく。原簿の時間的展開がいわゆる啓示という形をとってムハンマドの預言的意識に現れる、それがアラビア語の『コーラン』というわけです。
そうしますと、イスラーム本来の思想から申しましても、『コーラン』の原簿自体はアラビア語であったはずがない。永遠の書のコトバは永遠のコトバ、現在よく使われる表現法でいいますと、根源語で書かれた書物。永遠の書が成立するのは、アラビア語でもヘブライ語でもない ―しかし人間的に展開すれば、アラビア語にもヘブライ語にもなりうる― 根源語の次元です。ユダヤ人の場合もそうですが、これはセム人種の特徴的な考え方です。
永遠の、つまり形而上学的な、存在次元に、一切の地上の言語を超えた根源語というのがある。これは神のコトバであって、決してアラビア語のように限定された民族語ではないのです。神はムハンマドだけを預言者にしたわけではない。いろいろな民族にいろいろな預言者を立てている。たとえばモーゼもその一人。アブラハムもそうです。イエス・キリストも。ただイスラームの考えでは、イエスは神の子ではなくて、ムハンマドに歴史的に先行する一人の預言者です。そういう預言者たちみんなにアラビア語で啓示を下すわけにいかない。それぞれ違ったコトバで天啓が下っている。それらすべての啓示の源が、さっきからお話ししている原簿です。「その文句完全にととのえられ」、一冊の本として完全に天ででき上った本となって、神の手元にある。この原簿のコトバは神的根源語であって何語ともいえない。それがアラビアの預言者ムハンマドの場合はアラビア語で「次第に解き分けられて」『コーラン』が成立した、とこう考えるのです。
しかもムハンマドという人はメッカの人間でそのコトバはメッカという町の方言です。その上『イスラーム文化』でもちょっと書いておきましたが、だいたいそのころのメッカの商人コトバです。メッカの商人コトバで原簿ができている道理がない。アラビア語でもその他の何語でもない根源語で書かれたものが、ムハンマドという預言者、一個の歴史的な人物を通すことによって、言語的に限定されて、紀元7世紀の商人的な色彩を帯びたメッカの方言に翻訳された、とにかく、とぎれとぎれに下された、と考える、そのほうがむしろ自然だと思います。
こうしてみますと啓示といっても決して神様だけのひとり芝居ではない。もちろん建前からいえば全部神の言葉ですが、それと同時に、さきほども申しましたように、人間ムハンマドが参与している。それでなければ原簿がメッカの方言で出てくるはずがない。ですから神が『コーラン』の著者というわけにもいかない。またムハンマドが著者ということも、イスラームの立場では承認することができない。まあ、そういったところなのです。

天上の原簿とは神の言葉そのもの。アラビア語に「翻訳」された言葉ではなく、天にある神の言葉そのもの。それはアラビア語ではない。天上の原簿に関し『ヨハネによる福音書』冒頭に次の言葉がある。

初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。この言葉は初めに神と共にあった。万物は言葉によって成った。成ったもので、言葉によらずに成ったものは何ひとつなかった。言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

ここでいう「言葉」がおそらく天上の原簿である。神はアラビア語だけしか話さないのではない。日本語も英語も理解する。しかし『コーラン』はアラビア語で書かれている。それは神が選んだムハンマドと言う人物がアラビア語しか話せなかったからである。だからアラビア語で書かれている。

井筒俊彦はさらにそのアラビア語はメッカの商人の言葉であると指摘する。メッカ方言と言われても日本人はピンとこないかもしれない。日本語で言えば九州弁で書かれているのに似ているだろう。私は九州の佐賀出身だが、神が佐賀弁しか話さないというのはありえないという感覚かもしれない。

画家にたとえるなら、画家は絵を描くときに筆を用いる。そして画家が描いた絵はその筆の影響を受ける。同様に神が人間に語りかける時、預言者を通して語る。だから神の言葉が多くの人に伝わる過程で預言者の個性の影響を受ける。演奏者は演奏する時、楽器の影響を受ける。同様に神が語る時、預言者の個性の影響を受ける。だから神の言葉『コーラン』はムハンマドの個性を反映しアラビア語で書かれているのである。

画家は上質の筆を用いるかもしれない。神が預言者を選ぶときも同様に道徳的に正しい人間を選ぶ。我々からすれば、イエスやムハンマドは偉大であり神の言葉を人々に伝えるのにふさわしい人物だと思う。彼らはこれまでに存在した人間のうちもっとも偉大な人物だからだ。しかし神からすればイエスやムハンマドとて人間である。完璧とは限らない。

イエスやムハンマドの言葉は2種類ある。ひとつは神の言葉を神に代わって話している場合。もうひとつは神の言葉ではなく人間イエス、人間ムハンマドとして話している場合。ムハンマドでいうと『コーラン』は神の言葉を話している。『コーラン』に継ぐ聖典として『ハディース』という書物がある。これはムハンマドの言行録である。これはムハンマドが人間として話している言葉である。イエスも神の言葉を話すときと人間として話すときの両方があるはずだが、私が聖書を読んでもどの部分がどちらにあたるかは判断できない。

神の言葉が権威を持つと言うのはよく分かる。『ハディース』のような預言者の言葉が権威を持つというのもかなりわかる。しかし例えば預言者の弟子たちの言葉がどれほど権威を持つべきかは私には分からない。

ある動画で「マルクスはマルクス主義者ではない。同様にイエスが現在生きていたらキリスト教徒にならないだろう。」と述べていた人がいた。イエスの弟子たちが残した言葉が『新約聖書』に掲載されているが、キリスト教徒はそれらの言葉を信じる。ではイエスが生きていたら、自分の弟子が残した言葉を盲目的に信じるかと言うとそれはありえないだろう。たしかにイエスの弟子の言葉は優れた言葉を含むが、どれほど権威を持つのかは私には分からない。

聖書は神の言葉を含むため間違いはあり得ないと主張する人がいるが、それが正しいかは疑問である。神の言葉を含むが人間の手が加わっているからである。伝承ミスや間違いや偏りが生じる可能性は残る。私には聖書に間違いがあるかを判断できる能力はない。だから聖書に間違いがあると主張しているのではない。しかし間違う可能性はあると思う。

いずれにしても聖書に間違いはない、としたり、聖書に誤りがあるから信じないとしたりするより、仮に誤りがあるとしても神の言葉を含むのであれば、その聖書の真意は何かを学んでいくのが正しい態度ではないかと考える。

聖書は一言一句間違いがないとしたり、聖書は間違いだらけだとしたり、両極のどちらかに付くよりも、神の言葉を含むが人間の手も加わっているとして慎重に真意を探るという「中庸」が結局本質を捉え正しい気がする。これは儒教的な解決だ。

聖書には間違いがないと言う右寄りの態度をとると、聖書を信じる人はうさんくさいと思われ聖書も含めて懐疑的に考えられる左向きの反作用が生じる。陽に振れると陰が生じる。しかし本質を捉えて中庸を得れば反作用は生じない。twitterで「無為自然とは中庸」と述べた人がいたが、たしかに正しい意味での中庸をとると自然と物事はうまく行く。聖書を信じる人と信じない人の分断が、ある程度自然と緩和される。

続きは聖書と科学は矛盾するか 前半をご覧ください。


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■作成日:2023/2/20


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