感想 前半

とりあえず今回のシリーズは以上となる。書いた後の感想は「何とか形になったな」という思いと、「まだ書くべきではなかった」という後悔の半々である。

論文を書くにあたって最初に必要なのは洞察やインスピレーションである。それをもとにして事実と論理でその洞察が正しいかを検証していき補強して説得力のある論文が仕上がっていく。洞察は宙に浮いており地に足がつかない。事実と論理に還元されて初めて洞察はその正しさが証明される。洞察はそれが偉大であっても事実と論理に還元されないと正しいという確証はない。

今回の論で感じたのは事実と論理での補強の不十分さである。もっと複雑系科学に関する理論を学び、科学全般の知識を学んで具体例を豊富にし信頼できる理論で説得力を増さないといけないと感じた。インスピレーションや洞察は多少あるが、科学的な具体例と科学的理論で補強する必要がある。

今回は複雑系の基本的な考え方を宗教に応用して論をつくった。しかし私の複雑系の知識が初歩的なものであったためその応用も初歩的なものにとどまった。複雑系の初歩的な考えをアナロジー的に宗教へ応用しただけである。本当は科学の知識をもっと得て、数学的次元まで下りて哲学を展開する必要がある。ワールドロップ『複雑系』から引用する。

「じつをいうと、こういう話をするのはもううんざりなんだ。」とファーマーは言う。「どうしようもない言葉の壁がある。みんな「複雑性」や「創発的コンピューテーションの傾向」のような言葉を定義しようと躍起になっているが、私にできるのは、数学的に厳密な定義がなされていない言葉を使って、漠然としたイメージを相手の脳のなかに喚起することだけだ。まるで熱力学の草創期といったところだね。だがわれわれがいまいるのは、1820年ころの物理学者たちがいた場所だ。彼らは「熱」という名の何かがあることは分かっていたが、それを語るのにあとから考えればとんでもないような言葉を使っていた。」

私が思っているのも同じ気持ちである。今回の論で私は単に初歩的な複雑系に関する知識を初歩的にアナロジーを用いて宗教にあてはめただけである。「私にできるのは、数学的に厳密な定義がなされていない言葉を使って、漠然としたイメージを相手の脳のなかに喚起することだけだ」というのは私の気持ちでもある。

重要なのは科学全体の知識をもっと学び、数学の次元まで降りて哲学を構築することである。ワールドロップ『複雑系』から引用する。

数学を使えば理論のどの部分がうまくいってどの部分がうまくいっていないかがわかる。あるいはどの概念が必要でどの概念が不必要かが分かる。「何かを数式で表現すればその本質が現れる」と彼は言う。

本当に正しい意味で数学を哲学に応用しないと本当に正しい意味での現代哲学は構築できないと思う。しかしそれは非常に難しく恐らく私にはできる気がしない。私にできそうなのは科学の知識を学んで論をもっと正確で体系的なものにすることくらいである。

本当は大学の授業で物理・化学・生物の授業を聴きたい。根っからの文系人間なので科学の知識が圧倒的に不足している。慣れない分野を学ぶのは動画とか書籍ではなぜか効率が悪い。専門家の肉声を聴かないと知識が体にしみてこない。今年科目等履修生で近所の大学で講義を聴こうと思っていたが、仕事もあるのでとりやめることにした。飯は食っていかなくてはいけない。来年以降また検討する。複雑系の理論を大雑把に理解したうえで、それから5年くらいかけて今回の論はすべて書き直す予定だ。

下記リンクの記事で書いたが、論文を書くのも四季の循環に従うのが正しい方法だ。書物や映画や体験などに感動したのが種を植える春。そしてその感動が自分の中で広がっていき成長していくのが夏。そしてそれが自分の意見として結晶していくのが秋。そしてそれが基本的に忘れられ本質だけが残り次につながっていくのが冬。論文を書くのは秋の時点で書かなくてはいけない。

四季の循環のように修行する

しかし今回は夏の状態で論文を書いてしまった。どこかでぽろっと「神は存在するのかについての暫定的な意見を書く」と言ってしまったので書くはめになった。「駟も舌に及ばず」と『論語』にある。一度言ってしまった言葉は千里の馬でも追いつかないという。取り返しがつかない。私の文章を読む人は少ないから「やっぱりやめた」でもよかったのだろうけれど、何人か読む人がいる以上何か気になって書いてしまった。

自分の文章と言うのは客観的に評価できないから今回の論がどれほど説得力を持つのかは私には分からない。それなりに良く書けてる気もするが、料理を何度も味見していると自分の料理がうまいのかそうでないのか分からなくなるように、自分の文章を何度も推敲しているとうまく書けてるのかどうか分からなくなってくる。いずれにしても暫定的な考えであって遠い将来書き換える予定である。

宗教と科学の理論的不整合が現代の問題のひとつである。これは「理論的」不整合なので理論的にしか解決できない。それを解決するためには四つの分野を知っている必要がある。宗教、科学、宗教哲学、科学哲学である。宗教と科学の問題だから宗教と科学を知っていればいいと思うかもしれない。しかしそれだけでは不十分だ。宗教哲学と科学哲学も必要だ。

薩摩と長州だけあっても薩長同盟は成立しない。薩長は犬猿の仲だからである。仲介する坂本竜馬が必要である。それと同じではないと思うが、宗教と科学は犬猿の仲でありそれらをつなぐのは哲学であるから宗教哲学と科学哲学は必要である。

私は宗教哲学、科学哲学、宗教については大雑把に把握している。しかし科学について知らないので勉強が必要だ。しかし宗教哲学、科学哲学、宗教についてもどれも窮めたわけではない。ひとつの分野を窮めた人がその立場から言うべきことを言うべきであって、私のようにどの分野も窮めてない人間が意見を言うのはおかしいとする人もいるだろう。しかし宗教哲学、科学哲学、宗教をぼんやりと全体像をつかんでいる人が言うべきことを持っている場合もある。ショーペンハウエル『知性について』から引用する。

もっとも重要でもっとも深い洞察を提供するのは、個々の事物についての細心な観察ではなく、全体の把握の充実度なのである。

ひとつの分野を窮めた人は「細心の観察」を行う人である。しかし幾つかの分野を大雑把に知る人の中には「全体の把握」ができる人がいる。諸葛孔明の優秀な友達は思想を読むのに細部を重視して読んだ。しかし友達よりはるかに優れた孔明は思想の大略をつかんだと言う。現代は総合の時代になりつつある。必要なのは「現象の観察」ではなく「本質の把握」であり、「細心の観察」ではなく「全体の把握」だろうと考える。

続きは感想 後半をご覧ください。


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作成日:2023/3/2

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