神と風土

和辻哲郎に『風土』という名著がある。和辻が世界を旅しそこでみた眼前の風景や風土と、その土地が生んだ最高の思想や芸術や科学の関連を洞察する極めて魅力的な著作である。20代の頃私は初めてこの本を読んだとき「海外旅行ってこうやってやるのか」と非常に感銘を受けた。第一級の海外旅行書である。私のように海外旅行に興味があり海外の伝統思想や芸術が好きな人間にとっては非常に貴重な書である。

この『風土』において一神教が現れたのは中東の砂漠的風土が影響しているという指摘がある。それに対し多神教が現れたのは自然豊かな土地においてだという。自然豊かなインドにて多神教が現れたのを次のように記述している。

ヴェーダに現れたる想像力はインドの人間の感受性がいかに鋭敏であったかを示している。あらゆる自然の力はその神秘性のゆえに神化される。日、月、空、嵐、風、火、水、曙光、大地のごときめぼしいもののみならず、森も野も動物も総じて受容的なる人間にある力を感じさせるかぎりそれは神かデーモンである。だからバラモンの神話の世界の住人は恐らく他のいかなる神話のそれよりも豊富であろう。

日本もまた自然が豊かであるため八百万の神が存在する。われわれ日本人には「自然が豊かだと自然に神を見出し多神教が生まれる」という論理は分かりやすいかもしれない。われわれに分かりづらいのは砂漠の論理である。砂漠の山には草木が一本も生えていない点について和辻は次のように述べる。

非青山的であるとは、抽象的に言えば、山に一本の草木もないことである。草木に包まれた山は植物的なる生命に包まれているのであり、従ってその色彩も形貌も植物的なる生を表現する。そこでは雨風はまずこの生と交渉するのであって、無生物たる岩や土に直接触れるのではない。しかるに草木なき山はいかなる生をも示さない。雨風は単に物理的に岩の肌に影響する。だからそれは山の「骨」である、死せる山である。山の輪郭も岩の尖り方も、そのどす黒い色も、すべて死の表現であって生の力を感じさせぬ。

砂漠において自然とは死である。それに対し人工こそが生となる。続いて引用する。

砂漠においては「人間のもの」は本来すでに自然に対して他者である。夜の砂漠において見渡すかぎりの大地が黒く物すごき死の姿である時、はるかなる地平線に現れた一、二の「灯火」は異常な強さをもって人間の世界を、生を、暖かいなつかしさを印象する。それは海を渡るとき、地平線に島の灯火を見だした場合よりもはるかに強い感動を人に与えるであろう。昔砂漠を渡り歩いた人間が、たとえばユダヤからヘリオポリスへの長い苦しい旅の後で、もはや都へは一日工程に過ぎないあたりの野営地から、はるかに地平線に都の灯火を望みえた時の嬉しさというごときものは、ただ砂漠的人間のみの知るところである。かく人間に属するものが単に「人間に属する」という理由のみによってすら人間に感動を与えうるとすれば、自然的には見いだされぬもの、人間のみの作り得るものが砂漠において特に愛好せられるのは当然であろう。

自然は死であり人工こそが生である。そこから自然崇拝ではなく人格神が生まれるという。

生は人間の側にのみ存する。従って神は人格神たらねばならぬ。

砂漠において一神教が生まれたのは、積極的には人間こそが生であるから人格的な神が生まれたという理由に基づき、消極的には自然が死であるから自然崇拝が生まれなかったという理由に基づく。

和辻の『風土』を読んだ人は「一神教と偉そうに言っているけど砂漠的な風土から出てきただけじゃないか。自然が豊かじゃなかったからだよ。」という人がいる。神が存在しないという根拠として『風土』が持ち出されることがある。言っておくが和辻自身はそう言っていない。和辻を読んだ一部の人がそう言っているだけである。和辻は確かに「一神教は砂漠的風土を背景として現れた」と言っている。しかし「一神教は砂漠的風土を背景として現れたにすぎない」とは言っていない。和辻の『風土』から「宗教は風土の影響にすぎない」と結論することは可能かもしれない。しかし「それぞれの風土で規定された観点からそれぞれ宗教的真実の一側面を見ている」と結論することもできる。どちらが正しいかはすぐには断定できない。

これは思想を読んでいるとよくあるパターンと言っていい。「AはBである」というのと「AはBにすぎない」というのは別である。例えば「人間は動物である」からといって「人間は動物にすぎない」となるとは限らない。人間は理性を備え道徳をもち芸術を創る。動物ではあっても単なる動物ではない。

微生物は確かにその身体は化学的な分子で構成される。その活動は化学反応の集まりである。しかし微生物の活動は化学反応のあつまりに「すぎない」かどうかは別である。微生物の活動は化学反応に還元されない生命的現象を含んでいる。

イエスは人間である。しかし人間にすぎないかどうかは議論がある。キリスト教徒はイエスは人間であるという。しかし人間にすぎないのではなくて、人間でありながら神でもあるという。私はイエスを預言者として信じるが神だとは思っていない。神に選ばれた人だと信じるが神自身とは別だと思う。イエスを神と同一視するのはついていけないが、ひとつの主張としては成立しうる。

分かりやすい例を挙げる。われわれ人間は外界を認識する時、眼で認識する。鼻はあまりよくない。外界を主に鼻で認識するひとはいないだろう。しかし犬は違う。犬は人間より眼が悪いらしい。しかし嗅覚は人間の数千倍から一億倍いいという。ある人が別の人から逃げており追跡されているとする。追跡される側からすると最も恐ろしいのは追跡する側に犬がいる場合だ。犬はにおいをたどって確実に追跡してくるから逃れられないのだという。

『ラストオブアス2』というゲームがある。敵と戦う時に相手が人間であれば相手が見えないところに身を潜めればそれ以上追跡してこないが、相手側に犬がいる時は別である。どんなに隠れてもにおいをたどって確実に追ってくる。犬が敵側にいるときはやっかいでしかたない。

人間は眼で外界を認識する。犬は鼻で認識する。どっちの認識が正しいかという問いはナンセンスである。どちらもそれぞれに外界の別側面が見える。たしかに争いになることはある。犬の鼻によると犯人は右に逃げた。しかし人間の眼で足跡を確認すると左に逃げた。どっちがただしいか。しかし最終的には「それぞれの感覚器官の性能によって規定された観点からそれぞれ世界の一側面を見ている」というのが正しいだろう。

砂漠にすむ人と森にすむ人では世界観が違う。もちろんどっちの認識が正しいかと争うのは無意味だとは言わない。しかしそれぞれに世界の別の側面を見ているというのが本当のところだ。

たしかにつまらない人の考えは「それ単に風土の影響にすぎないよ」と言いたくなる場合はある。しかし偉大な人物の思想は違う。砂漠にすむムハンマドと森にすむ仏陀の思想はけっして「風土の影響にすぎない」のではなく、それぞれの風土という角度からそれぞれ宗教的真理の一面を捉えていると思う。峻厳な一神教も自然の背後に豊かな生命性を見出す多神教もどちらも重要だと考える。「宗教的思想は風土の影響にすぎない」という神を否定する主張は根拠がないと結論する。

続きは神の存在証明の妥当性をご覧ください。

■Chopin Waltz 6


■上部の画像はルオー

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■作成日:2023/1/27


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