宗教と科学の不整合

これから宗教と科学の関係を論じていく。第5回目の今回は軽い前置きで終わる。第6回目の次回で理論的な準備をして第7回目から本格的に論じていく。

現代において宗教が信じられないのは宗教の思想が科学の理論と整合が取れないからである。「整合が取れない」というのに二つの意味がある。ひとつは宗教と科学が矛盾するという点。もうひとつは宗教の思想が科学と関係がない点。この二つは微妙に違う。

矛盾するというのは例えばエジプトの軍隊からモーゼたちが逃げているときに、海が割れてモーゼたちを通したという話や人間は進化の結果できたのに神によって似姿につくられたという話や天動説など。確かに矛盾する記述がある。その点はシリーズの最後の方で検討する。

しかし科学と明らかに矛盾する聖書の記述は確かにあるがさほど多くない。それより重要なのは、聖書の記述が科学やわれわれの日常生活での常識と何ら関係がない点である。仏典も同様である。われわれの日常生活と関係のない話がどんどん続いていく。だから信用しがたい。その点を最初に取りあげようと思う。

要は宗教と科学のあいだで理論的な整合が取れていないのだ。理論上の不整合は恐らく理論的にしか直せない。「聖書の教えへの理解を深めましょう」というのは宗教としては正しい。しかし現代における宗教不信の根源である科学との間の理論的不整合を正すことが、現代の人々への応答という意味では本質的だと思う。

分かりやすい例を挙げる。私が営業職だとする。全国規模の焼肉チェーン店に換気扇を売っているとする。焼肉は煙が出るので換気扇は重要だ。全国規模のチェーン店なのでかなり巨額の案件である。

チェーン店の担当者と交渉しているが相手側が換気扇のスペックに対して文書に書いてあるスペックと実際のスペックに相違があると誤解して疑っているとする。私はどうすべきか。

間違っても誤解を放置して「買っていただければメンテナンス費用を無料にします」などと他の点で譲歩してはいけない。「これからも製品の改善に努力していきます」と言うのも違う。製品の改善は商売としては本質的であり重要だが、今回の交渉の場面では本質はそこにはない。本質は誤解を解くことにある。他の点で譲歩して相手が契約に応じたとしてもそれは本質的ではない。

宗教と科学の不整合も同じである。「メンテナンス無料」のようなおまけをつけるのは「宗教を信じると心の平安がえられますよ」というのに近い。もちろんそれは悪くない。いやむしろ逆に素晴らしい。しかし現代の宗教不信に対する回答としては本質的ではない。

「製品の改善に努めます」は「聖書の理解を深めましょう」というのに近い。もちろん聖書の理解を深めるのは素晴らしい。それこそ宗教の本質ですらある。しかし現代の宗教不信への応答としては本質的ではない。本質は宗教と科学の理論的不整合を理論的に解決することだ。

前置きはこれくらいにして徐々に論じていく。

つづきは複雑系概説 前半をご覧ください。

■上部の画像は葛飾北斎

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■作成日:2023/1/31


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