聖書と科学は矛盾するか 後半

「神の似姿」は精神的な意味だとしよう。そうすれば『創世記』と進化論は矛盾しないか。それでも矛盾する。なぜなら『創世記』では人間は神によって目的をもって創造されたのに、進化論では神の意思とは関係なく偶然によって進化してきたからだ。生物の突然変異と自然淘汰で生物の進化は説明される。進化論の過程には神の意思は見いだせない。

たとえ話をする。私が仕事を終えて夜に自分の部屋に帰って「暗いから電気をつけよう」と思ってスイッチを押して蛍光灯をつけたとする。蛍光灯がついた理由として二つの説明が考えられる。

説明A:暗かったので蛍光灯をつけて明るくしようと思ったから蛍光灯をつけた。
説明B:蛍光灯のスイッチに物理的圧力が加わり導線に電気が通って蛍光灯がついた。

どちらも正しいに違いない。「暗かったから」という説明Aは『創世記』的な説明であり、「電気が通った」という説明Bは進化論的な説明である。

これも次元の違いである。「暗かったから」という説明Aは日常生活レベルでの説明、上位レベルの説明であり、「電気が通ったから」という説明Bは物理的な次元での説明、下位レベルでの説明である。

電気が通り蛍光灯がつく過程をいくら分析しても人間の意思は見えない。単に物理的な現象があるだけである。しかし確かに人間の意思で蛍光灯はついている。同様に進化の過程をいくら分析しても神の意思は見えない。突然変異と自然淘汰があるのみである。しかし神の意思によって人間が進化した可能性は残る。ただこの比喩は正確ではない。電気が通る過程は物理的な過程で必然だが、進化の過程は突然変異に依存するなら偶然の過程だからだ。この点は後で簡単に説明する。

蛍光灯をつけたことを次の日友達に説明する時どのように説明するだろうか。当然説明Aの説明をするはずだ。「部屋が暗かったから明るくしようと思って」と言う。説明Bは省略する。物理次元は話さない。なぜなら友人との会話の目的はコミュニケーションであって科学技術的な理論を確認するためではないからだ。

聖書も読んでみればわかるが、その目的は神と人間のコミュニケーションである。だから『創世記』の説明はその目的にかなうはずである。進化論的な説明は省略するはず。

天動説も同じである。聖書のどこに天動説的な記載があるかは知らないが、これも聖書の記述はコミュニケーションが目的だと考えれば問題は解消する。

例えば宇宙物理学者がいたとする。その息子が6歳で夏の日に朝から外で遊んでいたとしよう。そして昼12時になったとき、父である宇宙物理学者が息子に「日がのぼって暑くなったから家に帰りなさい」と言う。物理学者は間違えても「地球が90度自転したから太陽の光の入射角が・・」とは言わないだろう。説明A的である天動説的な説明をして説明B的である地動説的な説明はしない。しかしだからと言ってその物理学者は地動説を理解していないわけではない。天動説を信じているわけではない。しかし物理学者がもし「地球が90度自転したから」という地動説的な説明をしたならば我々は彼の知性を疑うに違いない。

聖書も同様に神が人とコミュニケーションをとるのが目的である。人間に分かりやすいように噛み砕いて話すはずである。だからこの程度の矛盾をついて聖書は信用できないとするのは私にはよく分からない。たちの悪い言いがかりに見える。かたぎの人間が言うことではない。

■2024年1月3日追記。

『旧約聖書の誕生』という本に次の記載がある。

理科の先生が女性の学生に一本の花を差し出したら、これは何の花かななどということが問題になっている。「これはバラです」と答えて、それが正解として褒められたりする。しかし若者が同じ少女に一本の花を差し出したら、この花は何の花かと尋ねているのではない。「これはバラの花です」と答えるのでは誤りである。

著者は理科の先生が女子学生に花を差し出す場合は「科学の言葉」であり、若い男子学生が女子学生に花を差し出す場合は「関係の言葉」だと述べている。私の言葉で言うと、理科の先生の場合はそこにあるのは「科学的目的」であり、男子学生の場合はそこにあるのは「コミュニケーションという目的」である。次の記述もある。

実は聖書全体が関係の言葉であるといってもよい程である。

著者も述べているように聖書の言葉はコミュニケーションが目的である。科学的説明が目的ではない。

■追記終り。

複雑系的に言うと日常生活でのコミュニケーションは上位の階層であり、科学的な説明は下位の階層になる。上位のコミュニケーションのさいは下位の科学的説明は省かれたり適当になったりする。

例えば私が朝食をとらずに仕事に行ってエネルギー不足で調子が悪かったとしよう。そして昼になってようやく食事にありついて元気が出たとする。これを友達に話すとき「朝食とってなかったからだるかったけど、昼めし食ったらやっとスイッチはいって元気出てさ」と言う。科学的に正確に言うと「タンパク質が胃や腸でアミノ酸に分解されエネルギーとして血液によって全身に送られ」という説明になる。コミュニケーションという日常生活ではこの説明は省かれる。「スイッチ」という科学的には存在しない言葉もコミュニケーションレベルでは語られる。人間の創造の時も進化の過程は述べずに単に「土から似姿に造られた」と言うだけというのは十分にありうる気がする。

友達と話すとき「風呂に入ったらめっちゃリラックスしてさ」と言う。間違えても「風呂に入ったら視床下部からめっちゃセロトニンがでてさ」とは言わない。

聖書を読まずに「聖書は天動説をとっている」「科学的には地動説が正しい」と聞けば両者は矛盾する。しかし聖書を読むとその目的はコミュニケーションだと分かる。「聖書はこう言っている」を鵜呑みにすると科学と矛盾すると言う結論になるが、聖書を読めばそうとは必ずしも結論できない。

聖書と科学が矛盾するというより中世ヨーロッパの教会の公式見解と科学が矛盾していると思われる。次元の違いを考慮すると宗教と科学は矛盾しない可能性がある。もっとも偽預言者がテキトーなことを言う場合もあり、科学者が越権して宗教に関し間違えたことを言う場合もある。しかし矛盾するのは宗教家と科学者の意見であって宗教と科学は恐らく矛盾しない。

西洋の人からするとあれだけ長い間自分たちの主張は正しいとしてきた中世ヨーロッパ教会の世界観が間違えていたから、騙された感があり宗教は間違いだと考える人もいるかもしれない。しかし我々日本人はそれとは関係ないのだからそれに付き合う必要はない。中世ヨーロッパの教会の見解を通さずに、虚心坦懐に直接聖書を読めばいいのではないか。

■2023年3月10日追記。

『生物はなぜ誕生したのか 生命の起源と進化の最新科学』という本が届いた。非常に興味深い。しかしいまいち読めない。科学の知識が足りないせいだ。「トリプレット暗号」って何?「硫黄同位体」って何?となる。根っからの文系の私には完全にアウェーゲームだ。しかし読めるところを拾っていくと非常に興味深い。まだちゃんと読んでないが、生物の進化の歴史の壮大さが見えてくる。『創世記』の創造は正しいのかもしれないが簡略化して書いてある。実際は生物や人間は壮大な進化の歴史を通じて神により創造された。進化論は神の栄光を否定するのではない。生物進化の歴史を学ぶことは、その壮大な歴史を神が動かしているということを知ることであり、神の偉大さと栄光を知ることであるような気さえする。

■追記終り。

■2024年1月9日追記。

『新約聖書』「ローマの信徒への手紙」に次の言葉がある。

神の見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造以来、被造物を通してはっきりと認められます。

生命の誕生をめぐる科学的探求は、神がつくった自然と言う被造物を研究することである。であるから本来聖書的な立場から言えば、生物の壮大な進化の歴史は、神の否定であるどころか逆に神の偉大さを知ることであると言えるかもしれない。

■追記終り。

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作成日:2023/2/27

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