自然の美と精巧さ

神を信じる理由としてよく挙げられる論拠として「自然は精巧にできている。だから神は存在する。」という論拠がある。一部の科学者によって主張される。もしくは「自然は美しい。だから神は存在する。」という論拠もある。一部の芸術家によって主張される。この論拠も考察する。

ピンと来ない人のために言うと例えば海岸の砂浜を歩いていたとして、砂で作ったお城があったとする。非常に精巧にできていてとても美しい。その城が秩序だっているほど精巧にできているほど美しいほど我々は「誰かが作ったな」と思う。なぜなら物事は自然に任せておくと秩序は崩壊に向かうというのが原則だからである。

これをエントロピー増大の法則という。エントロピーとは「乱雑さ」を意味する。自然に放っておくとエントロピーは増大する。「エントロピー」=「乱雑さ」なので放っておくと秩序は壊れて乱雑になっていくという意味だ。たしかに砂浜の城は次第に波によって壊されていき乱雑になっていく。そして元には戻らない。ワールドロップ『複雑系』から引用する。

鉄は錆びる。倒木は朽ちる。風呂の温度は室温まで下がる。自然は構造を作り出すことより、構造をバラバラにしたり、ものを混ぜ合わせて平均化することに関心があるようだ。それどころか無秩序と崩壊のプロセスは不可避であるように見える。だからこそ19世紀の物理学者はそれを、熱力学の第二法則として公式化したのだ。その法則を分かりやすく言い換えれば、「スクランブルエッグを卵に戻すことはできない」とでもなろうか。

自然において秩序は自然と崩壊に向かう。だから砂浜の城のような精巧で秩序だったエントロピーの少ないものがあれば、「誰かが作ったな」と我々は思う。エントロピーの少ない状態はある意味不自然なのだ。

自然において秩序は崩れて行く。しかし自然には秩序がある。昔生物学の大学の授業にもぐって講義を聴いた。人間の遺伝子は紫外線とか転写ミスによってしょっちゅう壊れるらしい。しかし人体には驚異的な仕組みがあり、こわれた遺伝子を見事に修復していく。その仕組みを聴いた時にあまりの精巧さに驚嘆した。我々科学の素人は科学の偉大さに驚嘆するが、科学者は自然の偉大さを手本にするのかもしれない。

一部の人はここから次のように結論する。「これほどに自然は精巧にできているから神が作ったのだ」と言う。しかしこれは恐らく論拠が薄い。生物の体の仕組みは神によってつくられたのではなく、何十億年もの進化の過程を通じてつくられてきた、と言えるからである。

自然を手本とするのは思想でも同じである。『易経』という本がある。中国思想の最高峰に位置する本であり伝説上の聖人である伏羲という人が原型をつくり、中国史上最高の帝王である周の文王が発展させ、中国最高の思想家である孔子の注釈によって完成したと言われる書物である。伏羲が『易経』の原型を作った時、伏羲は自然を師としたという。公田連太郎『易経講話』から引用する。

伏羲という大昔の天子が、仰いで天の運行の状態を観察し、伏して地の形勢を観察し、鳥や獣の状態を見て、近くは自分の身を見て、遠くは外界の万物を観察して、はじめて八卦をつくったという。

伏羲が『易経』の原型をつくった時自然を師としている。そして公田連太郎によると『易経』の文章ですら自然のほんの一部を解説したに過ぎないのだという。

この六十四卦、三百八十四爻の意味の変化でさえも、十分には呑み込めないのである。実は私が分かっているのは、その意味の九牛の一毛にすぎないと言うべきである。六十四卦、三百八十四爻の意味を説いたのが、周易の経文と十翼と、すなわち今の易経の本分であるが、それも実はその意味を残らず説いてあるというわけではなく、全体の意味の九牛の一毛というべきである。私は昔の聖人の書かれたものを軽んずるわけでは決してないが、いくら千言万言を費やしても、卦の意味や爻の意味を説き尽くすことはできないのであり、そこで聖人が見本のようなものを示して、それから先は推して行くようにしてあるのである。易の辞はどうかこうか大体は我らにも分かるのであるが、それだけでは十分では無いのであり、その外に無量無辺の意味があるのである。

公田連太郎によると中国思想でもっとも偉大な書物である『易経』でさえ自然のほんの一部をうつしとったに過ぎないという。

芸術家は自然を師とする。ゲーテの言葉を引用する。

美は隠れた自然の法の現れである。自然の法則は美によって現れなかったら、永久に隠れたままでいるだろう。

自然研究の与えてくれる喜びにまさるものはない。自然の秘密の深さは測り知れない。しかし我々人間には次第に進んで自然をうかがうことが許され恵まれている。そして自然は結局測り知り難いという点が我々にとって永遠の魅力を持つのだ。その魅力のためわれわれは繰り返し自然にひきつけられ、繰り返し新たな観察と発見とを試みるのである。

なぜ私は結局もっとも好んで自然と交わるかというに、自然は常に正しく、誤りはもっぱら私の方にあるからである。これに反し人間と交渉すると、彼らが誤り、私が誤り、さらに彼らが誤るというふうに続いて行って、決着するところがない。これにひきかえ、自然に順応することができれば、事はすべておのずからにしてなるのである。

ゲーテのような人類史上屈指の詩人ですら自然を師とする。生物の体の精巧さは進化で説明ができるかもしれないが、自然の美は進化では説明できない。自然の美は動物や植物だけにあるのではない。私は自然の中を流れる川が好きだが川とその中の岩や周りの草木など全てが一体となって美をつくっている。人間が作った防波堤などがあるとその分だけ美しさは損なわれる。人工より自然のほうが美しい。これは進化では説明できない。だから自然の美を見て「これは誰かが作った」と考えるのは一定の根拠がある。

科学、芸術、思想、それぞれ自然を手本としている。エントロピー増大の法則があるにもかかわらずエントロピーは減少している。自然の精巧さと自然の美は砂のお城の比ではないのだ。「誰かが作った」と思うのは一定の根拠がある。

ダンテの言葉に「自然は神の芸術である」という言葉がある。ホッブズの『リヴァイアサン』に「神は自然によってこの世界を創り、自然によってこの世界を統治している」とある。神は人間が努力する際の手本として自然を与えたのだと言える。

ここで人間は自然を超えられるかという問題がある。人間が自然を超えていると思う時は多々ある。科学の発展は驚異的であり人間は自然を破壊しようとしている。人間は自然を超えていると言えるかもしれない。ワーグナーの『ヴァルキューレ』序曲を聴く。圧倒的な迫力があり人間は自然を超えていると思う。高級中華料理を食べる。文化とはこんなに素晴らしいのかと思う。圧倒的な文化の力を感じ、自然を超えていると思う。

それに自然が偉大だと言ってもすべて自然に任せて人間は何もしなくていいかと言うともちろんそんなことはない。そんなことをしたら全てが崩壊してしまう。人間の懸命の努力は必要である。人間が何もしないで放っておくと食料は足りないし疫病は蔓延しととんでもないことになる。自然はある意味不完全にできている。

要は神は自然を不完全に創ることで人間が自分で努力するように仕向けていて、そして自然を完全に創ることで人間が努力する際の手本を与えているのである。そして人間は自然を部分的に超えられるようにできている。超えられるからこそ人間は努力するのである。人間は一見自然を超えられる。しかし本当の意味では超えることができない。人間は部分的に自然を超えられる。しかし全体としては自然を超えることができない。

『荀子』に次の言葉がある。

書下し文
天地之を生み、聖人之を成す。

現代語訳
天地が自然を創り、聖人が自然を完成させる。

ジグゾーパズルで言うと人間が地上に現れた段階で、ジグソーパズルの2割は自然という形ですでに完成している。あと8割を人間が作ることになる。2割しかできていないから自然は不完全だと言える。しかしその2割に関してはほぼ完全なので自然はほぼ完全だと言える。人間はその自然を手本にしながら8割を作っていく。伏羲が自然を手本として思想を創り、ゲーテが自然を師として芸術を創り、科学が自然の神秘を探り、その成果を基に技術が発展する。ジグソーパズルは大雑把な比喩だが大体あってる。

人間は神の創った自然を手本にし、それを部分的に超えられるが本当は超えることができないという絶妙なバランス。孫悟空が仏陀の手のひらから抜け出し仏陀を超えたように見えて実は仏陀の手のひらの上で動いているのを思い起こさせる。この絶妙なバランスが神が存在するということを暗に示唆しているような気がしてならない。

続きは神と風土をご覧ください。

■Chopin Impromptu 4


■上部の画像はルオー

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■作成日:2023/1/23


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