四季の循環のように修行する

マンガはあまり読まないが、以前『バガボンド』というマンガを途中まで読んだ。次の言葉がある。

天地自然に四季のあるように、人間の修業などもまた繰り返す四季の如し。

どういう文脈の言葉だったかは覚えていないが、印象に残っている。

中国思想では修行に限らず物事は四季の循環のように行うという思想がある。例えば私がtwitterで誰かからダイレクトメッセージを受け取ったとする。すぐに返答したほうが相手に失礼がないという考えもある。しかし私はすぐに返事しないときがある。

まず相手からのダイレクトメッセージを読む。自分の中に相手のメッセージが入ってくる。四季で言うと植物の種から初めて芽が出た春の段階。初めて自分と相手のメッセージが互いに触れた段階だ。

そして時間がたつにつれ、そのメッセージが自分の精神や身体にひろがっていく感覚が生じる。そしてさらにひろがったメッセージに反応するように、自分の精神や全身で化学反応のようなものが生じる。これは植物の根や茎や葉がひろがっていく夏の段階だ。相手のメッセージと自分の個性が私の全身で化学反応を生じる。

そしてさらに時間がたつと自分の中でそれらの化学反応が終わりそしてだんだん結晶化していく。ひとつの本質として結晶化する。それが相手への返信内容になる。これが果実をつける秋の段階である。自分が相手に本当に返信したい内容が結晶化する。この段階で相手に返信する。そうすると大雑把に言って自分自身に対しても誠実で相手に対しても正直な正しい返答内容になる。メッセージを読んでから返答するまで10分~5時間くらいかかったりする。相手が「こんにちは」とメッセージを送って来たら、10秒で「こんにちは」と返す。しかしもっと踏み込んだメッセージだと返答するのに時間がかかる。

さらに時間がたつとそのダイレクトメッセージやその返答内容の記憶も薄れていくが、次につながる経験として自分の中で定着する。これは葉も茎も花も枯れて本質だけが残った冬の段階だ。

本を読むのも同じだ。本を読むことで内容が自分の精神や身体にはいってくる。そしてそれが全身に広がり、自分の全身において本の内容と私の個性のあいだで化学反応が生じる。さらに時間がたつと細かいところは忘れるがその内容の本質が結晶化してくる。その結晶化した本質が自分がその本から受け取った内容である。植物で言えば葉や花は枯れて本質たる果実のみが残った状態。そしてさらに時間がたつと内容はさらに忘れられる。しかし本質は残る。

本だけではない。映画やゲームも同じ。私はよくyoutubeでゲーム実況を見る。自分の好きなゲームを他人がどう感じ取ったのかを見るのが面白い。自分と同じところで感動していれば共感が生じる。自分と違う感じ方をしていると「なるほど、そう感じたのか」と発見が生じる。ゲーム実況で実況者があるゲームをクリアする。そしてクリア直後にゲーム全体の感想を言おうとする。しかし実況者によっては感想が言葉にならないときがある。ゲームを終えた後の印象や感動はあるが、まだ自分が何に感動したのか、自分の感動の正体がつかめていないため言葉にならないということがある。その時点では体験が整理されておらず本質が捉えられていないからだ。内容が整理できていない春夏の時点ではまだ本質が結晶化していない。実がなる秋の段階に達していないため感想が言えないということだろう。

ゲームをクリアして数週間たてばゲームの内容の細かい点は忘れていくしかしかわりに本質があらわれてくる。自分がゲームの何に感動したのかが分かってくる。秋に葉や花が枯れて果実という本質が結晶化するように、知識を大雑把に忘れることで本質が結晶化する。「自分の感動の正体はこれだったのだ」「自分はこれに感動していたのか」と思う。プラトンの想起説ではないが、なかば「思い出す」感覚が生じる。

ある人が知識はコーヒーの粉のようなものだと言っていた。コーヒーを淹れるのにコーヒーの粉にお湯を注ぐ。はいったコーヒーが本質である。コーヒーが入ったらコーヒーの粉は捨ててもいいように、本質が得られたら知識は忘れてもいいというのだ。

アインシュタインの言葉に次の言葉がある。

教養とは、学校で学んだことをすべて忘れてしまった後に、残っているもののことである。

これも同じことを言っている。ただ忘れてもいいとは言っても完全に忘れていいわけでもない。大雑把には覚えている必要があると思う。細かいところは忘れていい。これは冬の段階で本質のみが残り他は全て枯れてしまう段階である。一見忘れたようでも残った本質は次につながっていく。

中国思想の『易経』という書物で「元享利貞」という思想がある。元は「始まり」という意味で春に相当する。万物が芽を出し花が咲き新鮮で華やかな時期。人間で言えば子供や青春時代である。享は「通る」という意味。季節では夏。葉が茂り生命力にあふれる充実した時期。人間で言えば壮年期。利は「宜しき」という意味。花や葉は枯れて本質たる果実のみが残った時期。人間で言うと老年期。それまでに行った仕事の成果が実を結ぶ、収穫の時期。貞は「堅固」という意味で冬に相当する。さらに植物は枯れていき、堅固な本質のみが残る。公田連太郎『易経講話』から引用する。

天の大元気のはたらきによって、万物は始まり生まれるのである。それが元であり、始まるのである。それが始まり生まれると、だんだんに盛んになり、十分に伸びていくのである。それが享であり、通るである。盛んになり十分に伸びていくと、それぞれの物が各々その宜しきを得て、その便利とする所を得るのである。大きくなるべきものは大きくなり、小さくあるべきものは小さく出来上がり、太いものは太く、細いものは細く、各々その宜しき所を得て、各々その利とするところを得るのである。それが利であり、宜しきである。各々その宜しき所を得ると、その正しき所を堅固に守って完全に出来上がるのである。それが貞であり正しきである。そうして貞からまた繰り返して元が始まるのである。例えば稲が芽を出したところが元であり、それがだんだんに成長して十分に伸びるのが享であり、十分に伸びると、それから実がなるのが利であり、その実が成熟して十分に堅く固まるのが貞である。その実の正しく固く成熟したところから、また次の元享利貞が起こり、これを繰り返して際限なく循環するのである。
要するに元享利貞は元は物事の始まりであり、享はそれが盛んに伸びていくのであり、利は十分に伸びたものが引きしまっていくところであり、貞は堅固に引きしまったところである。そうして貞からまた元となり、享となりして、際限なく繰り返して進むのである。こういうふうに考えて、世の中のいろいろな物事に当てて工夫なされば、元享利貞の意味は明瞭に理解し得られるだろう。

『ラストオブアス2』というゲームがある。衝撃的なゲームで衝撃的過ぎて好きにはなれないゲームだが、最後までプレイしてみた。最初のプレイで衝撃が走る。その衝撃が始まりで「元」である。一週間ほど時間をかけてその衝撃が自分の中に広がっていく。「通る」のであり「享」である。そしてさらに『ラストオブアス2』のひとつひとつの場面が自分の中で正しく定着し、正しく結晶化していく。この正しさ「宜しき」が「利」である。この段階で『ラストオブアス2』というゲームに対する自分にとっての正しい感想が結晶化する。ゲームの感想を書くならこの時点で書かないといけない。そして最終的に内容を忘れていく。しかし完全には忘れておらず次につながる形で本質として残っている。これが「堅固な」「貞」である。

『ラストオブアス2』のような衝撃的なゲームでは元享利貞のサイクルが2週間ほどかかる。インベーダーゲームのような内容の薄いゲームであればこのサイクルは10秒くらいで終わる。内容が濃いほどサイクルは長くなる。インベーダーゲームはゲームが終わったら10秒後に感想が言える。しかし『ラストオブアス2』はゲームを終わった時点では衝撃のみが残っており、感想はまだ結実していない。人生を揺り動かす体験などはこのサイクルが10年とかかかるかもしれない。

物事は四季の循環のように行うというのが中国思想に一貫する思想だ。公田連太郎『易経講話』からさらに引用する。

世の中のあらゆる事の中において、うまく順調に運んで行くところの事は、すべて、この順序で進んでいっているのである。もしこの順序によらず、一足飛びに飛んでいくものがあれば、それは変態であり、決して滞りなく順調に発達しないのであり、必ず中途にて挫折すべきである。

『ラストオブアス2』をプレイし終えた直後のまだ本質が結晶化する前の段階で感想を言うのは正しい元享利貞の順序に従っていないため正しくないという。もちろん個々の場面でその場その場で感想や解釈を言うのはいい。youtubeのゲーム実況とかで実況者がその場で「個々の場面」の感想や解釈を言うのはもちろんいい。しかし「ゲーム全体」としての感想はゲームをプレイ終えた瞬間ではまだ結実していないはずである。衝撃だけが残りまだ感想はうまく述べられないはずなのだ。元享利貞のサイクルに従った後に言わなくては正しい感想にならないのである。

作品を創るにも急いで強引に作ると逆にいいものができないという経験は誰しもあると思う。それも元享利貞のただしいステップを踏んでいないからだろう。

『論語』陽貨篇に継ぎの言葉がある。

書下し文
子曰く、道に聴きて、塗に説くは、徳をこれ棄つるなり。

現代語訳
道ばたで聞いて、その内容を道ばたで話すのは、徳を棄てるようなものだ。

これは受け売りはよろしくないと述べている。正しい元享利貞のサイクルを経ていないからである。ゲーテ『箴言と省察』から引用する。

受け売りの真理は魅力を失うが、受け売りの誤りは吐き気をもよおさせる。

これも同じ内容を述べている。本を読んで時間がたって自分の中で血肉化しないとただの受け売りになってしまう。受け売りではそれが真理であっても魅力を失う。

実際には私は本で読んだ内容をすぐに引用することもある。それは昔から自分で考えていたことを私より上手に表現している文章を見つけた場合とかである。その内容はもとから自分の中で血肉化されているので、その場合は受け売りにはならず、良いのだと思う。

例えば最近読んでいる本のミッチェル・ワールドロップ著『複雑系』から引用する。ブライアン・アーサーという経済学者の言葉である。

誰もが独自の研究スタイルを持っていると、アーサーは言う。ある研究問題を城壁に囲われた中世の町のようなものと考えるなら、多くの者が、破城槌のようにそれに真向から挑むだろう。城門を攻撃し、鋭い知性とすぐれた頭脳で警護隊を打ち破るだろう。だがこれまでアーサーは、破城槌的アプローチが彼の強さであると考えたことはない。「自分はのんびり考えるのが好きだから、城の外に陣取るよ。そして考える。そうすればいつか ―多分まったく違う問題に目を向けているときだろうが― 吊り上げ橋が降りて来て護衛兵が言う。「降参だ」ただちに問題の答えが見えてくる。」

これは私の日頃のアイデアを思いつく方法とほぼ一致する。私は問題に取り組む際、確かにある程度城攻めは行う。攻めるべき城の構造を分析するし城を軽く攻めたりもする。しかし決して無理には攻めない。そしてある程度攻めたら放っておく。すると時間がたってふとしたときに良いアイデアが自然に湧いてきたりする。

これは先ほど述べた元享利貞の思想とも一致する。元享利貞のただしい過程を経るには若干時間が必要だ。問題を解こうとするが無理には解かず、ある程度自然に任せる。そうすると元享利貞の過程が動き出し、そのうち実がなり良いアイデアが生じる。

そのようにして自然に思いついたアイデアがもっとも自然でもっとも無理なく、もっとも正しい解答になりやすい。元享利貞の過程で結晶化された本質が正しい答えになる。もう一度公田連太郎を引用する。

世の中のあらゆる事の中において、うまく順調に運んで行くところの事は、すべて、この順序で進んでいっているのである。もしこの順序によらず、一足飛びに飛んでいくものがあれば、それは変態であり、決して滞りなく順調に発達しないのであり、必ず中途にて挫折すべきである。

この創作の自然の流れは洋の東西を問わず、優れた仕事をする人は本能的に知っているのかもしれない。問題に取り組みそのあと放っておくと、正しいアイデアが結晶化してくる。複雑系で言う自己組織化だ。

ただやや強引に答えを求める方法も全く否定はできない。私は現在はある程度放っておく結晶化の方法をとっているが、若い頃は徹底的に自分の頭で答えを求めて思考した。その経験は確かに現在の自分に役立っている。どっちが正しいのかどう使い分けたらいいのか個人的にはまだ結論が出ていない。「熟考する」→「放っておく」を繰り返すのがいいのか。人によって違う可能性もある。

思想を理解するのが難しいのは具体例が少ないからだ。元享利貞の具体例も見つかるたび追記していく予定。具体例を追記していくと冗長になるが、思想の専門家向けではなく他の分野の人向けなので簡潔さよりも分かりやすさ優先していく。

例えばデカルトが『方法序説』という本を書き1637年に出版した。これは元享利貞の元である。種が芽を出した状態。春だ。 そして徐々に多くの人たちがデカルトを読み始める。「こんな思想があるぞ」と評判になる。当時の人にとっては新しい思想であり、新鮮な思想だ。春の新鮮さである。

デカルトの思想はヨーロッパ中に広まっていく。享の段階。夏だ。植物の枝葉がのびていく。ヨーロッパ中の優れた思想家たちがデカルトを読み思想の化学反応が生じる。

それから百年もたつと化学反応は終わり、デカルトの思想の効果は引きしまっていく。デカルトがヨーロッパに何を残したのかが明らかになる。果実をつける秋の段階。利の段階。デカルトの思想の効果が正しく収束する。

そして最終的にデカルトの思想は新鮮さを失い、現代を生きる思想ではなくなる。古典となる。秋に柿の果実ができるが、冬にはその果実さえ失われ、堅い種だけが残る。元享利貞の貞は「堅い」という意味。秋に引きしまった効果がさらに引きしまっていく。

古典が「固い」というイメージで捉えれられるのはわかるだろうか。「古典はスルメのようなものだ。戻すのに時間がかかる。」と言われる。逆に言うと「噛めば噛むほど味が出る」という意味でもあるが、これも古典が「固い」ものとしてイメージされている一例だ。

固い種がまた次の春につながっていくように、古典もまた次の時代の新しい思想を生み出す種になる。

似たような例は歴史を見ればいくらでもある。ルターは1517年にカトリックを批判する「95箇条の論題」を書いた。これが元。そしてその思想はヨーロッパ中にひろまり、カトリックとプロテスタントの対立となる。宗教改革運動が生じる。享だ。その運動は200年たつと落ち着いていく。ルターがヨーロッパに何を残したのかが明らかになる。

歴史においてある出来事の意義が分かるのはその出来事が終わって時間がたってからだという。同時代ではその出来事の意義が分からない。例えば卑弥呼の時代の日本を知るには絶望的に情報が少ないが、現代日本を知るには逆に絶望的に情報が多い。情報が多すぎて本質がつかめない。本質たる果実ができるためには葉が落ちる必要があるように、現代日本を知るには無駄な情報が忘れられる必要があるのかもしれない。本を読んだ後、細かい知識を忘れた後、本質が残るのと同じである。

■2023年1月20日追記。

オワコンという言葉がある。ネタ切れというやつだ。商業的理由から事務所にせかされて作品を創ってばかりの人は陥りやすい。確かに私自身「もう書くこと無いな」と思ってもがんばってしぼりだせば、けっこう書く内容は見つかったりもする。しかしそのような努力は限度がある。

元享利貞という春夏秋冬のサイクルでいうと、作品創りは収穫であり秋の段階だ。とりあえず収穫し終わるとそれ以上収穫できる内容が無くなってしまう。オワコンになる。

そのような時は収穫をやめて種植えをしてやるのがいい。以前から興味あった分野を学んだりする。秋の段階から春の段階に戻るのだ。すると時がたてばその種が芽を出し根が広がり葉が繁りそのうち実を結ぶ。オワコンになりそうならいったん作品創りを休んでやりたいことをやるのがいい。作品は急いで創りすぎず、まだネタが残っているうちから常に種植えを継続しておくのがいいのかもしれない。

一度売れた芸人さんがその後売れなくなって仕事が無くなったと話していた。しかし仕事がなくなった時に旅行などに行って好きなことをしているうちにそれがその後の仕事の役に立ったと言っていた。これも種植えのようなものだ。

種を植えたら急いで収穫してはならない。すぐに収穫できる場合もあるが、基本は元享利貞のサイクル待っておく必要がある。ゲーテの言葉に次の言葉がある。

優れた人で即席やおざなりには何もできない人がいる。そういう人は性質としてその時々の事柄に静かに深く没頭する事を必要とする。そういう才能の人からは目前必要なものが滅多に得られないので、われわれはじれったくなる。しかし最も高いものはこうした方法でのみつくられるのである。

これも似たようなことを言っている。元享利貞のサイクルを経たものが本当に良いものを創るというのだ。

■2023年3月6日追記。

茂木健一郎氏の『頭は本の読み方で磨かれる』に次の言葉がある。

頭の中に蓄積された知識と言うのは実は発酵して育つものだ、ということを知っておくことは重要なことです。一度内部に蓄えられた知識は、その人の行動を決める「センス」に変わるもの。読書は情報を取り入れて「ハイ、終わり」にはなりません。取り入れた知識は自分の過去と未来の経験と結び付いて新しい意味が見いだされ、知らぬうちに発展していきます。こういう発酵のプロセスを経てはじめて「知性・見識」として定着するのです。

これも春に種を植えてそれで終わりではなく、夏の成長があり、秋の結実があり、冬の本質化があるという点を別の表現で述べていると思われる。この文章は夏から秋にかけてのプロセスを述べている。次の言葉もある。

どの本がどう役立つかということはわからないけれど、たくさん本を読むとそれが腐葉土のように発酵して脳の中にいい土壌ができる。千冊読んだ人一万冊読んだ人というのは、それだけの養分が脳の中に蓄えられるから、とてもおいしい果実ができるということです。

春に読んだ本は夏に発展し秋に結晶化してくる。さらに引用する。

映画や映像、音楽などもいいのですが、本がいちばん「情報の濃縮度」が高いことは確か。脳に一刻一刻膨大な情報が入ってくるのを、最後に「要するにこういうことだよね」という形にまとめ上げるのが「言語」です。つまり言語は脳の情報表現の中でもっともギュッと圧縮されたものなのです。考えてみれば文章はたった一行であっても無限の単語の組み合わせから、選りすぐられて成り立っています。ましてやこのように二百ページ以上もある本にならんでいる言葉の配列は、宇宙の歴史上、二度とあらわれるものではありません。すべての本はかぎりなく広がる暗黒の「言語の宇宙」において、あるとき奇跡的に凝縮され、あらわれた結晶のようなものなのです。その圧縮された言葉をしっかりと受け取れば、脳の中で時間をかけてじわじわと味わいが広がり、一生の肥やしとして消化されていくことになるでしょう。

これは珍しく冬から春にかけての描写である。一年かけて植物が花を咲かせ秋に実をつけて最後に冬に種だけが本質として残る。植物の一年の最終的な成果は種である。「要するにこういうことだよね」という形として残るのが種である。言語によって凝縮した本質は種のようなものである。植物の一年かけての成長の結果が凝縮したのが種であるように、ある人の経験の本質が凝縮したのが書物なのである。それを読んだ別の人の精神の中にまた種が植えられ、「味わいが広がり」、夏へ秋へとさらに展開していく。


■上部の画像は葛飾北斎
「女三ノ宮」。

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