無為にして為さざる無し~老子を読む8

13.無為にして為さざる無し

 人為的行為による副作用を徐々に無くしていき自然なあり方に還っていくというのが老子の道である。 第四十八章から引用する。

書下し文  
学を為せば日々に増し、道を為せば日々に損ず 
これを損じて又損じ以って無為に至る 
無為にして為さざる無し

現代語訳  
学問をすれば知が日々増えていく 
道を修めれば人為が日々減っていく 
一つ減らしさらにもう一つ減らしついには無為に至る 
無為にして全てを行える

 人為を減らしていくと副作用はなくなり自然に世の中が動くようになる。ひとつづつ徐々に人為を無くしていけば最終的には無為に至る。 そして無為に至れば世の中は最も良く動く状態になる。それを「無為にして為さざる無し」と言う。

 聖人は大道にのっとり無為にして世の中を治めると言う。

 第五十七章に次の言葉がある。

書下し文  
聖人は云う 
我無為にして民自ら化し 
我静を好みて民自ら正しく 
我無事にして民自ら富み 
我無欲にして民自ら樸なり

現代語訳  
聖人は言う 
私が無為の立場を守れば民はおのずから感化され、
私が静けさを好んでいれば民はおのずから正しくなり、
私が特別な事業をしなければ民はおのずから豊かになり、
私が無欲であれば民はおのずから素朴になる

 以上は「無為にして為さざる無し」の別表現である。

14.積極的真理と消極的真理

 老子は積極的な人為的行為による副作用と消極的な大道による解決の自然さを強調する。 老子は正しいのであろうか。確かに老子は真理の一部を言い当てている。 しかし我々は積極的方法のプラスの効果と消極的方法のマイナス効果も同時に知らなくてはならない。

 積極的方法を用いた場合も消極的方法を用いた場合も、プラスの効果とマイナスの効果が同時に生じる。もう一度まとめる。

 積極的方法のプラスの効果
 →確実に効果が表れる
 積極的方法のマイナス効果
 →人為による副作用が生じる

 消極的方法のプラスの効果
 →自然な方法により解決され副作用が生じない
 消極的方法のマイナス効果
 →確実には効果が出ない

 積極的真理と消極的真理の両方があるのだが、それらを正しく弁証法的に統合する能力は私にはない。 あるいは周の文王や孔子にならば出来たかもしれない。先に引用した『孟子』においては、周の文王は狩りをしたいという欲を、副作用を生ぜずに世の中をよくするちからに変換できているからである。 本来中国古代思想はその積極的真理と消極的真理が補い合い円環するように思考するのであるが、老子はその消極的側面のみを受け継ぎ純化させたのである。老子は偏っている。

 積極的真理と消極的真理がどのように補い合うべきかを私はとても説明できない。私に出来るのは『荀子』から次の文章を引用するくらいである。

 好ましいものを見ればそれを行う前に必ず前後をふりかえって反対の憎むべきものを熟慮し、利益あるものを見ればそれを得る前に必ず前後をふりかえって反対の害すべきものを熟慮し、 その両方を考えたうえでその好悪取捨を定める。そのようにしたら、いつも失敗はしない。一体人々の悪いところは一方にかたよって害を及ぼす点である。 好ましいものを見たならそれにかたよってその憎むべき点を考えず、利益のあるものを見たならその害をかえりみない。そのため行動を起こせば必ず失敗し、仕事をすれば必ず恥をこうむる。 『荀子』不苟篇第三

 一見好ましいように見えるものがあっても、そのものには好ましくない別の側面がある。利益があるように見える場合でも、その場合には不利益がある別の効果が発生するかもしれない。 利益と不利益をよく検討してから判断せよと荀子は言うのである。

 積極的行動も消極的静観もどちらもそれぞれプラスの効果とマイナスの効果がある。その両方の側面をよく比較して総合的に利益のある方法をとるのが良いのである。 荀子からすると消極性のみを重視する老子は偏りすぎなのである。消極的側面のプラスの側面に偏ってそのマイナスの側面を考えないと、「行動を起こせば必ず失敗し、仕事をすれば必ず恥をこうむる」と荀子は言うのである。

 荀子の提唱する行動基準は確かに正しい。平凡でシンプルで分かりやすいが、シンプルで分かりやすいその分だけ強力な基準となると思う。 分かりやすくないと誤解などが生じ、我々一般の人間はその基準を正しく用いれないからである。荀子の基準は常識的で平凡で分かりやすいからその分だけ優れていると言える。

続きは難きをその易きに図る~老子を読む9をご覧ください。

■このページを良いと思った方、
↓のどちらかを押してください。



■関連記事