太上は下これ有るを知るのみ~老子を読む2

3.太上は下これ有るを知るのみ

 「自然とそうなった」という思想には典拠がある。第十七章である。

書下し文  
太上は下これ有るを知るのみ

現代語訳  
最上の君主は人民はその存在を知るだけである。

書下し文  
功を為し事を遂げて百姓皆我自ら然りと謂う

現代語訳  
功績が上がり事業が完成して人民はみな我々は自然と事業を完成させたと言う

 最も優れた君主の仕事は自然な方法で人々を導く。そして人々は「事業が完成したのは自然とそうなったのだ」と言う。 であるからその君主の仕事は形跡が残らない。そのため人々はその君主の存在を知るのみである、というのが老子の主張である。  これをケース1とする。

 第十章に次の言葉がある。

書下し文  
長じて宰せずこれを玄徳という

現代語訳  
君臨するが支配しない、これを奥深い徳という

 聖人は君主として君臨するが、人に命令したり人を操ったりしない。であるからその君主の仕事は形跡が残らず人民は君主の存在を知るだけとなるのである。

 第二十七章に次の言葉がある。

書下し文  
善く言う者は瑕謫なし

現代語訳  
優れた言い方をする者はきずを残さない。

 新釈漢文大系の解釈により説明する。大道は自然を通して無言のうちに人々に教えを啓示する。 そして聖人は大道にのっとる。であるから本当に善い言葉を用いる聖人は無言のうちに道理を悟らせるのであるから、それを聴く者に「きず」も「とが」も残らない。 言葉によって人々に道理を説くと、聴く者が勘違いをして理解した場合などにおいて、悪影響が及ぶ場合があるが、聖人の無言のうちに道理を悟らせる方法ではそのような悪影響は生じないのである。 よって聖人は人に命令しないというのである。

 第二十七章はさらに続く。

書下し文  
善く結ぶ者は縄約なくして解くべからず

現代語訳  
善い結び方をする者は縄を用いないが誰もほどけない

 同様に新釈漢文大系の解釈により説明する。大道は縄を用いて万物を束縛していないのに、自然に万物を統御している。 聖人も人々を操ろうととしないのに、人々は聖人に自然と感化されるのである。聖人は人々を束縛しないのに、人々は聖人の影響力から逃れようとしない。

 聖人は人々に命令しないし束縛もしないが、人民の上に立ち人々を感化する。よって「長じて宰せず」=「君臨するが支配しない」というのであり、 「下これ有るを知るのみ」=「人民はその存在を知るだけである」というのであり、「轍迹なし」=「その仕事は形跡が残らない」というのである。

 そのような人物が実際の歴史上にいたとは到底思えない。恐らく老子の理論をもとに理想の人物を描いているだけであろう。 あるいは上古の黄帝のように社会全体がシンプルであった時代であれば、あるいはそのような人物の出現は可能だったかもしれない。

続きはこれを親しみ誉む~老子を読む3をご覧ください。

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