老子第二十七章に次の言葉がある。
書下し文
善く行くものは轍迹なし
現代語訳
すぐれた行き方をするものは轍の跡を残さない
意訳
優れた行動をするものはその仕事が歴史には残らない
老子は自然や世の中を動かす主体を「大道」と呼ぶ。しかし自然や世の中の事象をいくら観察しても大道が仕事をした形跡は見あたらない。 同じように大道を体現した聖人は世界を動かすが、聖人が仕事をした形跡は歴史や同時代の資料を見ても見つからない、と老子は言うのである。 聖人の名は歴史に残らないというわけである。
第二十三章に次の言葉がある。
書下し文
道に従事する者は道に同(どう)ず
現代語訳
道に従って行動する者は道と一体になる
よって聖人は大道と一体になり大道と同じ働きをするのであって、聖人の仕事は大道の仕事と同じようにその形跡が残らない、と老子は言うのである。 聖人の次に優れた人物においては、優れた仕事をしても形跡が残ってしまうので、彼の名は歴史に残ってしまう、と言うのである。
第二十七章に次の言葉がある。
書下し文
善く閉ざすものは関鍵無くして開くべからず
現代語訳
優れた門の閉じ方をする者は鍵を使わないが誰も門を開けられない
聖人は門を閉ざすのに鍵のような有形物を用いないので、門を閉じた形跡が残らないのである。 鍵を用いれば鍵を用いた事実自体が形跡として残ってしまうので、例えば誰かがそれを観察し、記録されれば歴史に残ってしまう。 鍵を用いずにどうやって閉じるのか、必ずしも明らかではないが、例えば第三章に次の言葉がある。
書下し文
得難きの貨を貴ばざれば、民をして盗を為さざらしむ
現代語訳
珍しい財宝を尊重しなければ人民は盗みをしなくなる
上に立つものが宝物・財宝を尊重しなければ皆財宝をほしいと思わないので、鍵を使わなくとも誰も倉庫の門を開けようとはしない、 というところであろう。
例えば以上の方法で聖人が鍵を用いずに門を閉じれば、人々は門が開かなかったのは「自然にそうなったのだ」と言う。 我々は大道が自然や世の中を動かすのを「自然にそうなっている」と考える。 聖人は大道を体現しているため、聖人が自然な方法により門を閉じる場合も、同じように「自然にそうなったのだ」と我々は考えるのである。 聖人の行いは大道にのっとるのである。
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