常無と常有~老子を読む13

21.常無と常有

 もう一度第一章から引用する。

書下し文  
常に無欲にして以ってその妙を観、
常に有欲にしてその徼を観る

現代語訳  
常に無欲であれば妙なる大道を観るが、
常に有欲であれば錯綜した現象を観る

 上記の読み方が最も一般的な読み方であり、無欲を肯定し有欲を否定する読み方である。解釈1とする。

 新釈漢文大系はもう一つの読み方を示している。

書下し文  
常無は以ってその妙を観んと欲し
常有は以ってその徼を観んと欲す

現代語訳  
常なる無はその妙なる大道を観ようとするが
常なる有はその錯綜した現象を観ようとする

 常なる無を体現すると妙なる大道を観るのが可能であるが、常なる有を体現すると万物の錯雑とした差別相を観るのが可能である、と解釈する。 上記の解釈では常なる無と常なる有の両方を肯定する読み方となる。解釈2とする。

 個人的には解釈1の方が老子に忠実な解釈だと思うが、解釈2の方が現代に通用する解釈となり面白いと思う。

 常なる無を体現し大道の妙なる働きが見える人は偉大である。 しかし、常なる有をも体現し世の中の錯雑たる状況も見える人は、世の中がどのような仕方で錯綜しているかも見て取れるのである。 常なる無、常なる有の両方を体現した人は、世の中の複雑さを保ちつつ妙なる大道を実現できるというわけである。 紛然とした世の中に新しく正しい調和をもたらせるのである。

 第四章に

書下し文  
其の紛を解く

現代語訳  
世界のもつれを解きほぐす

とあるのは、常なる無と常なる有の両方を体現した人物には可能ではないかと思う。

22.中和を致して天地位す

 『中庸』第一章に老子と似たような記述がある。

書下し文  
喜怒哀楽のいまだ発せざる これを中と謂う
発して皆節に中(あた)る これを和と謂う 
中なる者は天下の大本なり 
和なる者は天下の達道なり
中和を致して天地位し万物育す

現代語訳  
感情が動き出す前の平静な状態を中という
感情が動き出したが全て節度にかなう状態を和という
中こそは天下の偉大な根本であり
和こそは天下のすぐれた道である
中と和を実行すれば
天地が正しい状態に落ち着き
万物は正しく生育する

 老子と同じ内容を言っているのではないのは承知している。しかし似ているので引用した。この記事で儒教の解説をするつもりはない。老子の思想の理解を深めるために以上の文章を考察する。

 老子では様々な知や技術が生じる前の、太古の自然な状態を称揚するが、それは上記の「中」の状態に似ている。それは「天下の大本」=「偉大な根本」だと言うのである。

 そして様々な知や技術が発達すると世の中は「中」の状態にあった自然なあり方を失いがちになる。 老子は知や技術が発達しても自然なあり方を失わない聖人の治世を称揚するが、それは上記の「和」の状態に似ている。 それは「天下の達道」=「天下のすぐれた道」というのである。

 一方で古い優れた伝統を守る人々がいて、もう一方で新しい良い文化を作る人々がいる。古い伝統を守る人は「天下の大本」=「偉大な根本」を守っているのであり、 新しい文化を作る人は「天下の達道」=「天下のすぐれた道」を目指しているのである。

続きは老子の長所と短所~老子を読む14をご覧ください。

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