淡乎として其れ味無し~老子を読む10

16.淡乎として其れ味無し

 第三十五章に次の言葉がある。

書下し文 
道の言を出だすは淡乎として其れ味無し 
是を視れども見るに足らず 
是を聴けども聞くに足らず 
是を用うれども尽くすべからず

現代語訳 
道が言葉に表されると淡々としていて味がない 
これを視ようとしても見えず 
これを聴こうとしても聞こえない 
しかし道の働きはいくら用いても尽き果てない

 道は自然であるから、言語で表現しても淡々として味がない。あっさりとしていて平凡であり、多くの人は気づきもしない。見ようとしても見えず、聴こうとしても聞こえないのである。 先に記した医者の三兄弟の長男の仕事は道に近いのであって、物事が小さいうちに対処するのであるから人々はその功績に気づかない。料理でいえば味がしないのである。 しかし道の働きは自然に世の中を動かし、その働きはいくら用いても尽き果てない、と老子は言う。

 『中庸』第十九章に次の言葉がある。

書下し文 
君子の道は闇然として而も日々章かに、
小人の道は的然として而も日々に亡ぶ

現代語訳 
君子の道は人目をひかないのに
日に日にその真価が表れてくるが、
普通の人間の道ははっきりと人目をひきながら
日に日に消え失せてしまう

 君子の行いは一見平凡に見えながら、徐々にその効果が表れてくると言う。普通の人間の仕事は多くの人の注目を集めるが、一時的効果しかなく日に日にその効果は失せていくのである。

 『易経』文言伝に次の言葉がある。

書下し文 
龍徳にして正中なる者は
庸言これ信にし庸行これ謹む

現代語訳 
龍のような徳を備え、正しく中庸を保つ者は
平凡な日常の言葉を信にし平凡な日常の行いを謹む

 聖人は一見平凡な言葉を話し平凡な行いをするが、その効果は永続し、その射程は遠いと言うのである。

17.味無き大道と味わい豊かな文化

 我々は上記において二つのタイプの文化を見る。

 ひとつは淡々として味がない大道であって、もう一つは豊かな味わいを持ち人々を魅了する文化である。

 老子は淡々として味がない大道を称揚する。聖人の道は味がないというのは、聖人の一つのあり方として正しいと私は考える。 しかし豊かな味わいにより人々を魅了する文化にもそれとは別の大いなる意義がある。

 では老子の言葉はどちらに属するだろうか。老子は大道を称揚するため、老子の言葉も味のない大道に属すると考えたくなる。 しかし老子の言葉は本当に味がないだろうか。老子の言葉は深遠であり、読む者に深い感銘を与える。そこには深い味わいがあるのである。 決して淡々とした言葉であるとは言えない。

 淡々として味がない思想は実は儒教がこれに該当する。儒教はその真意を理解しない場合、読んでいて実に眠い。 当たり前で平凡な内容ばかり書いてあるからである。「是を視れども見るに足らず 是を聴けども聞くに足らず」は儒教に当てはまる。  しかし真意が分かれば「是を用うれども尽くすべからず」=「その働きはいくら用いても尽き果てない」というのが儒教に該当すると分かる。 儒教は正しく用いられれば歴史的な意義があると私は思う。

 当記事では儒教については言及しないが、無為にして為さざる無し~老子を読む8で荀子を引用した。 荀子は非常に立派な思想家だが、孔子のような聖人ではないと私は思う。しかし彼は確かに儒者であって、儒教の特質をある程度体現している。 引用した箇所も、一見平凡で常識的な内容だが、正しい中庸を捉えていると言える。「その働きはいくら用いても尽き果てない」とまでは言わないが、 彼の言は用いられればかなりの真価を発揮する言だと言えよう。

 いずれにしても味のない大道をとるか、豊かな味わいをもつ文化をとるかは人間のタイプの問題であって、どちらも深い意義があると言える。

続きは無極に復帰す~老子を読む11をご覧ください。

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