では欲は常に悪しきものであり、無欲は常に最善であると言ってよいのだろうか。 私はそう考えない。欲をなくすのは不可能であるし、それどころか欲は、正しい意欲として世の中を動かすエネルギーたり得る。 意欲を正しく用いれば世の中を良い方向に動かせる。鍵をかける技術が進歩するのは実際社会の進歩である。
確かに老子は偉大ではあるが、一面的と言わざるを得ない。老子の言は非常に的確ではあるが、真理の半分しか語っていないのである。 意欲がなければ社会の進歩はなくなる。
『孟子』梁恵王章句に次のような話がある。
斉の宣王がたずねられた。「むかし周の文王の狩場は七十里四方もあったと言うが、本当だろうか。」
孟子はお答えして言われた。「そのように伝えられております。」王が言われた。「そんなに大きかったのだろうか」
孟子は言われた「いやいや、それどころか人民はまだ狭すぎる、もっと大きくされてはと思っていたようです。」
王が言われた。「私の狩場はたかだか四十里四方しかないのに、人民はそれでもまだ広すぎるといっておるのは、なぜだろう。」
孟子は言われた。「それはそのはずです。文王の狩場は七十里あっても、草刈り、木こりも狩人も自由にその中に入れたし、
草を刈ったり木を切りだしたり、雉や兎を捕ったりしても良かったのです。つまり文王はそれを独占しないで、人民と共有にしておられたのです。
人民がまだ狭すぎると思うのももっともではありませんか。」
(『孟子』梁恵王章句下第二章)
孟子が梁の恵王にお目にかかった。王様はちょうど広いお庭の池のほとりに立たれ、大雁や小雁や大鹿や小鹿などを眺めながら言われた。
「賢者もわたしのようにこうしたものを見て楽しむのだろうか」孟子はお答えして言われた。「賢者であってこそ、はじめてこれらのものが楽しめるのです。
賢者でなくては、たとえあっても、とても楽しめません。だから詩経にも「文王が御殿をつくろうとして、見積もったり、縄張りなどをすると、
大ぜいの人民がきそって工事をして、幾日もかからずに造り上げてしまった。文王はこの工事は決して急ぐには及ばないといわれたのだが、
人民たちは文王を親のように慕い、たくさん集まってきたからたちまち出来上がったのである。」」
(『孟子』梁恵王章句上第二章)
「文王は人民の力で台や池をつくったのだが、人民は怨むどころかその徳をほめたたえ歓んで「めでたい台」「めでたい池」という名前まで付けて、
大鹿や小鹿や魚やすっぽんがいるのを楽しんだものです。それというのも古の賢人は自分ひとりで楽しまないで、人民といっしょに楽しんだからこそ、
本当に楽しめたのです。」
(『孟子』梁恵王章句上第二章)
以上の孟子の説話が興味深いのは孟子が君主の欲を肯定している点である。しかし無条件に肯定しているのではない。 周の文王の狩場は人民も使ってよかったのである。孟子は君主が人民とともに楽しむ場合に肯定しているのである。 孟子の説話は欲を正しく用いると世の中がさらに良くなる可能性を示唆している。周の文王の狩りをしたいという欲がある場合と、 その欲が仮になかった場合を比較すると、ある場合の方が世の中がより良くなっているのである。
欲はなくせないのであるから、それを正しく用い人々といっしょに楽しんでさらに世の中を良くしようという孟子の思想は老子より現実的な面を持ち合わせていると言えよう。
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