大学時代、ある授業で聞いた内容を述べる。
自分の所属していない他学科の授業だったため、確か宗教学科だったと思うが、教授の名前も忘れてしまった。 キリスト教神秘主義の授業だったのははっきりと覚えている。 人間が神と接する3つの段階についての説が紹介された。 誰の説であったかは忘れてしまった。確か中世ヨーロッパの思想家の説だったような気がする。
第一段階は、自然の中に神を見る段階。
第二段階は、自分のうちに神を見る段階。
第三段階は、神そのものを見る段階。
第一段階の、自然のうちに神を見るというのは、我々日本人にはやや共感しやすいかもしれない。 もっとも現代の日本人には分かりづらくなっている傾向はある。
ゲーテは自然を師としていた。
なぜ私は結局もっとも好んで自然と交わるかというに、自然は常に正しく、 誤りはもっぱら私のほうにあるからである。 これに反し、人間と交渉すると、彼らが誤り、私が誤り、さらに彼らが誤るというふうに続いていって、 決着するところがない。これにひきかえ、自然に順応することができれば、 事はおのずからにしてなるのである。
『地質学について、警句的』
自然は「ある意味」決して間違えないが、人間は間違えると述べている。
美は隠れた自然の法の現れである。自然の法則は、美によって現れなかったら、 永久に隠れたままでいるだろう。
『格言と反省』
ゲーテは自然からインスピレーションを得て、それを芸術により美として表現する。 芸術家によって表現されなければ自然の与えるインスピレーションは人々に知られずに隠されてしまうという。
一流の人は自然を師とし
二流の人は人間を師とし
三流の人は書物を師とする。
という言葉がある。
私は太極拳を習っている。まだ初心者だが非常に興味深い。 教室で先生が太極拳について生徒に指導をする。 そして我々生徒がその内容を聞いてピンときて「ああ、なるほど、こういうことか。」と思う場合がある。 自分の身体で先生の言葉を理解できた場合である。 その場合は当然ながら先生の言葉に従ってよい。 正しく先生の言葉を理解したうえで従っているからだ。
しかし先生の言葉を聞いても、ピンとこないときがある。 先生の指導を自分の身体で理解できなかった場合である。 その場合はその言葉に従ってはいけない。 無理に従おうとするとこれはよくない。 その場合は先生の指導に従っているのではなく、 「先生の指導だと自分勝手に勘違いした内容」に従っているからだ。 無理に従うとおかしな癖がついてしまうだけである。
この場合自分の身体感覚が「自然」であり、先生の言葉が「人間」である。 「一流の人は自然を師とする」という通り、太極拳の場合自分の身体で理解した内容に最終的には従うべきなのだ。
これはほとんどすべての習い事に応用できる考えではないかと思う。 これを理解せずに習い事で失敗する人がいかに多いことか。
自然を師とするからと言って、人間や書物から学ばなくてよいかというとそれはもちろん違う。 他人との交流から自分では全く考えつかないことを我々は学ぶ。 「他人と交流するというのは自分の予想外のことと出会う体験だ」と言う人もいる。 書物を通して過去の偉大な人物から多くを教わることもできる。 孟子は過去の偉人と友人になることを「尚友」と述べた。 当然、人間や書物からも積極的に学ぶ必要はある。しかし最終的には自然を師とすべきというのである。
第一段階の「自然の中に神を見る」は以上である。 古代日本人やゲーテや自然を師とすると言う考え方は、 一神教の「神」を見るとは同じではないが、関連はあると考える。
第二段階の「自分のうちに神を見る」について簡単に述べる。 精神の拡大を続けていくと、精神は同心円状に拡大し、高次の精神も開発される。 続けていくと一神教の世界観が正しければ、最終的には神性まで到達するはずである。 そのとき修行者は自分自身のうちに神を見る。 自分自身のうちに神的な精神が開発されるからである。 これが第二段階のはずである。
そして第三段階は「神そのものを見る」段階である。 「精神の下への拡大」 で述べたように、人は自分自身のうちにあるものを外に投影する。 例えば自分自身に「痛い」という感覚があるからこそ、 他人に痛みが生じた時に共感ができる。 また自己のうちにある植物的生命を意識化したときに外にある植物を生命的に感じるようになる。
同様に第二段階にて自分自身のうちに神性を見た人物は、外にある神そのものを見れるようになり、 第三段階に至るのかもしれない。
ムハンマドも洞窟の中で精神の拡大を行い、恐らく自分自身のうちに神を見出したのちに、 本当の神を見れるようになったのではないかと推測する。
キリスト教で神とイエスと聖霊の三位一体と言うが、本当の三位一体は「神」と「人間」と「自然」の三位一体であると言う人もいる。 神と人間と自然が互いに対応していると言う。 第一段階の「自然」と第二段階の「人間」、第三段階の「神」これらが互いに対応している。
悪の構造3 テロの思想で私が初めてコーランを聞いた時の体験を述べた。
以下コピペする。
私はインドネシアのジャワ島のジョグジャカルタというところに旅行でいった。 そして変なものを食べたため腹を下してホテルで寝込んでいた。
ねぼけまなこでうつらうつらしていた時、 突然、異様な迫力を持った声が聞こえてきた。 それはあたかも神の声のようであった。
そして私は自分が神の声を聞こえるようになった、とは思わなかった。 その代わり私が思ったのは「そうか・・これがコーランか・・」という考えだった。
私はイスラム教徒ではない。豚肉も好んで食べる。 コーランが偉大だというのは同意するが、 それが本当に神の声なのか、偉大な詩人ムハンマドのポエムなのか よくわからないからである。
いずれにしてもイスラム教徒にとってはコーランは神の声である。
以上コピペ。
コーランを聞いて神的なものを感じるというのは凡人でもできる。 それは第三段階の「神そのものを見る」とは別である。 コーランを聞いて神を感じるのは、ムハンマドと言う偉大な人物を介して神に接しているのであり、 第三段階の「神そのものを見る」とは他人の力を借りずに自分自身の精神で神を見るのだからである。 両者は全く別物である。
キリスト教徒はイエスを通して神に接し、イスラム教徒はムハンマドを通じて神に接する。 しかし神秘主義の三つの段階は、誰かを介してではなく自分自身で神に接する時の段階を述べている。
続きは プラトンとアリストテレス■上部の画像は葛飾北斎
「ホトトギス聞く遊君」。
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