儒教と精神の拡大

儒教においても精神の拡大に関する記述がある。

例えば『孟子』においては「浩然の気」という言葉が出てくる。 公孫丑章句上から引用する。

公孫丑「先生はどこがまさっているのでしょうか。」
孟子「私は他人の言葉をよく判断する。また浩然の気をよく養っている。」
公孫丑「浩然の気とはどのようなものでしょう。」
孟子「言葉では説明しにくいが、この上もなく大きくこの上もなく強く、しかも正しいもの。 立派に育てていけば天地の間にも充満するようになる。それが浩然の気なのだ。」

これは明らかに精神の拡大について述べている。 孟子ほどの偉大な人物になれば「浩然」=「ひろびろとした気」となる。 凡人であれば「そこそこの気」を養うわけである。

「立派に育てていけば天地の間にも充満するようになる。」とあるように、 精神が拡大していく過程も簡単にではあるが述べられている。 最終的には天地の間にも充満するようにまで拡大すると言っている。

我々は「精神の拡大」とやや客観的な表現を用いて記述するが、 孟子のように昔の人は「浩然の気を養う」とやや主観的な表現を用いる。 しかし内容は同じである。

儒教での精神の階層は3つある。 小人、君子、聖人である。 精神の拡大の過程を図12で示す。

『大学』に次の言葉がある。

日に新たに日日に新たに、又日に新たなり。

我々も小さい頃は見るもの聞くもの初めての体験であるから、新鮮な気分で世界を感じる。 青春期も世界はまだ非常に新鮮である。 しかし歳をとると自分の周りの物や景色を見ても新鮮さが徐々になくなる。

しかし精神の拡大が生じると、精神の拡大前と拡大後で世界の見え方が違ってくるため、 拡大後は成人であっても世界を再び非常に新鮮に感じる。 これが「日日新たなり」という意味ではないかと思う。

ゲーテは「天才は青春期を繰り返し体験する」と述べたが、同じ内容ではないかと推測する。

ついでに言うと拡大後の世界観のほうがより大きい精神で捉えた世界観なので、 本当の世界像により近いと私は考える。

この精神の拡大の過程は非常に楽しい過程である。 世界がより豊かに感じられるようになり、いろんな知識も理解できるようになる。

修行というと苦行と言われるように非常に苦しい過程と考えられがちである。 確かに修行の最初は非常に苦しい体験が必要なわけだが、その成果が現れ精神の拡大が生じると、 それは非常に楽しい過程に変化していく。

『論語』述而篇に次の言葉がある。

書下し文 
子曰く、疏食を飯い水を飲み肱を曲げて之を枕とす。楽しみ亦その中にあり。

現代語訳 
孔子が仰った。粗末な食事を食べ、水を飲み、ひじを曲げて枕とする。道を求める本当の楽しみはそのような中にもある。
書下し文 
子曰く、賢なるかな回や。一簟の食、一瓢の飲、陋巷に在り。 人はその憂いに堪えず、回やその楽しみを改めず。賢なるかな回や

現代語訳 
孔子が仰った。えらいものだね、回は。竹のわりご一杯のめしとひさごのお椀一杯の飲み物で、せまい路地くらしだ。 他人ならそのつらさにたえられないだろうが、回は自分の楽しみを改めようとしない。えらいものだね、回は。

私は孔子と顔回は精神の拡大を経験した人物だと考える。 その拡大の過程を楽しんでいる様子が伝わってくる。

『近思録』論学に程子の言として次の言葉がある。

書下し文 
昔、学を周茂叔に受けしとき、常に顔子、仲尼の楽しむところを尋ねしむ。楽しむところは何事ぞ、と。

現代語訳 
昔、周茂叔から教えを受けたころ、顔子や仲尼が楽しんだ点を考えさせられたものだ。彼らが楽しんだのは一体何かと。

なぜ周茂叔がその問いを発したかというと、それが大切だからである。その内容を弟子たちに考えさせるためである。

同じく『近思録』論学にその答えがある。

書下し文 
或る人問う。聖人の門、その徒三千なるに独り顔子を称して学を好むとなす。 かの詩書六芸は三千子習いて通ぜざるにはあらず。然らば則ち顔子の独り好むところは何の学ぞや。 伊川先生曰く、学びて以って聖人に至る道なり。

現代語訳 
聖人のところには、三千人の弟子がいたのに、顔回だけを学問好きと言われた。あの詩書などの経書について、 三千の門人は学習してよく理解していたはずである。そうすると顔回だけが好んだというのはどういう学問でしょう。 伊川先生が仰った。「学んで聖人に至る道である。」

「聖人に至る」というのは、「平凡な人間が聖人になる」という意味である。 当時は学問とはそもそもそういう意味であった。 平凡な人間が聖人になるためには普通の成長ではなく急速な成長が必要である。 日々徳が高まり、日々才が伸びる。急速な成長が必要なのは、平凡な人間と聖人の差は非常に大きいからである。

凡人が聖人になるためには単に書物の勉強だけをしても不可能である。 必ず図12のような精神の拡大が必要である。何百倍、何千倍の拡大が必要だからである。 孔子と顔回が聖人に至るための学問をしていたのであれば、精神の拡大を経験していたはずである。

「学んで聖人に至る道」を実践していた孔子と顔回は孔子のほかの弟子たちと比べ偉大であったと言える。 しかし精神の拡大は当然に楽しい過程であって、たとえどんな平凡な人物であっても、 そのような現象が生じれば楽しまざるを得ないのである。 孔子と顔回が偉大であったのは間違いはないが、彼らが道を楽しんでいたのはある意味当たり前かもしれない。

「孔子の遺書」「孔子の遺書」という記事でもこの点はすでに述べている。

続きは 一神教における精神の拡大

■椎名林檎さんの 『おだいじに』

■上部の画像は葛飾北斎
「ホトトギス聞く遊君」。

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