仏教における天道

精神の階層はギリシャ哲学以外でも記述がある。

仏教では人間界のひとつ上の階層に天道がある。 簡略化するとその上に菩薩がいてその上に仏がいる。 図9を参照いただきたい。

天道について述べる。 天道に住む天人は人間より一階層上の存在である。 しかし六道輪廻の世界のひとつであり、輪廻の苦しみから免れ得ない存在である。

天道と言っても何十もの階層がある。 『往生要集』から天道について引用する。

天道を明かさば三あり。一には欲界、二には色界、三には無色界なり。 その相すでに広くして、つぶさに述ぶべきこと難し。
『往生要集』厭離穢土

大きく分けると3つに分けられるがそれぞれが非常に細分化されている。 全部述べるのは大変である。

しばらく一処を挙げて以ってその余を例せば、とう利天のごときは快楽極まりなしと言えども、 命終に臨むときは五衰の相現ず。
『往生要集』厭離穢土

天人の中で一番下の階層は四天王である。よく奈良で仏像として見る天人である。 多聞天、広目天、持国天、増長天の四者だ。

wikipediaによると「とう利天」というのはそのもう一つ上の天人らしい。下から二番目。 「快楽極まりなし」と言われているが、天人は人間より優れていて、 「優れた快楽に耽る」と言われる。明らかに芸術的快楽を述べている。 『金瓶梅』のような欲望に任せる一時的な快楽ではなく、 芸術のような優れた持続的な快楽である。 芸術のみではなく学問や徳行なども含むというべきで、 ギリシャ哲学の真善美の世界がこれに相当すると考えられる。

天人はキリスト教とかの天使のような存在である。 私はそのようなものを見たことがないので、本当に存在するかどうかは知らない。 天人は人間とは別の存在だが、しかし人間と関係がある。 なぜなら人間が仏道修行をするとき、人間界→天道→菩薩→仏と階層をのぼっていくからである。 図10を参照いただきたい。天人は途中の通過点である。

新幹線で博多から東京に行くことに仏道修行を例えると博多が人間界だ。東京が仏の世界。 「とう利天」という天人のレベルで修行が終わってしまったのであれば隣の駅の小倉で途中下車するようなものだ。 本来の仏道修行からすると天道は決して目的ではなくあくまで通過点である。

精神の拡大が起きるとまず精神は隣の領域に進出する。 二倍の拡大であれば元の自分が二倍になるのであり、もとの自分を基準に同心円状に拡大する。 だから精神の拡大が起きると当然まず隣の領域に進出する。

精神の拡大が起きると自然が生命的に見えてきて芸術を理解するようになると述べたが、 人間の下のほうへの隣の領域は動物であり植物である。上のほうの隣の領域は仏教的に言うと天道である。 図11を参照いただきたい。

精神の拡大が起きると内面が豊かになる。 身近な自然や身近な文化から豊かな楽しみを得られるようになる。 『往生要集』での「とう利天のごときは快楽極まりなし」というのはこの精神の拡大の結果を述べている。

天道に達した修行者が3千円のフランス料理のランチを食べると、 普通の人が30万円だしてフランス旅行に行くのと同じくらいの楽しみを得る。

どうやって比較するのかと言われそうだが、それは簡単である。 以前の自分と修行後の自分を比較すればいいからだ。

天道に達した修行者が30万円でフランス旅行に行くのと同じ楽しみを得るには、 単純計算だと普通の人は3千万円を出す必要があるが、 実際はお金をいくら出しても得られる楽しみは一定以上増えないため、 3千万円だしても同じ楽しみは得られない。

そのような天道など存在しないと考える人もいるが、存在することは確実である。 例えばモーツァルトのように強い感動を我々に与える人が感動的な体験をしていないはずがない。 日頃身近な文化や自然からすらも強烈な感動やインスピレーションを受けていたはずである。 そのようなインスピレーションなしにはモーツァルトのような音楽は絶対に創れない。

天界は我々は死んでから行く場所だと言われたりするが、空海が生きたまま仏となったように(即身成仏)、 天界には生きたまま到達できる。モーツァルトのように。

しかし天人もやはり六道輪廻の苦しみを免れない。 逆にそれまでの生活が楽しかったほどその楽しみを失う苦しみは、 普通の人間より何十倍にもなる。

『往生要集』で「命終に臨むときは五衰の相現ず。」とあったのはそれを指している。

四種の甘露もついに食すること得難く、五妙の音楽はにわかに聴聞を断つ。
『往生要集』厭離穢土

臨終に臨むときは鼻や舌の機能が不全になりあれだけ魅力的だった食べ物ががおいしくなくなり、 耳が聞こえなくなってあれほど感動した音楽が聴けなくなる。

天上より退かんと欲する時、心に大苦悩を生ず。地獄のもろもろの苦毒も十六の一にも及ばず。
『往生要集』厭離穢土

それまでの人生が楽しかった分、それを失う苦しみは非常に大きくなるというのだ。

衰えは天人だけではなく人間にもあるのだが、天人五衰と言われ、衰えは人間よりも天人の特徴とされる。 その指摘は非常に的を射ていると言える。衰えの苦しみは人間より天人のほうが圧倒的に苦しいからだ

真善美の喜びにふける人たちも衰えがやってくる。

まさに知るべし。天上もまた願うべからざることを。
『往生要集』厭離穢土

真善美の天上界も苦しみを免れ得ない。 天上界は厭離穢土に分類される。 私は真善美のために生きる天人は偉大な存在だと思うが、 仏教の世界観では天人すら最終目的ではない。

仏教の世界観は門外漢からみれば一見荒唐無稽に見えるかもしれないが、 実は合理的にできている。

続きは儒教と精神の拡大をご覧ください。


■上部の画像は葛飾北斎
「女三ノ宮」。

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