精神の上への拡大

正しい修行であれば基本的に同心円状に拡大すると言ったが、 そうであるとすれば下のほうへ拡大するのみではなく上にも拡大する。

精神が拡大するとすぐに生じるのが、自然が生命的に感じられてくる点と芸術が理解できるようになる点である。 芸術は普通の人はあまり理解しない。多少なりとも理解するのは現代日本で10人のうち3人ほどだろう。 ある程度深く理解するのは10人のうち1人程度かもしれない。 基本的には図7に示すように、芸術は一般人より上に位置する。

精神の拡大で芸術が理解できるようになるといっても、もちろんその程度は人によって違う。 例えば小規模な精神の拡大を考える。 1から2への拡大である。2倍への拡大だ。

2倍と一概に言っても実際にはもともとの精神の大きさが2倍になるという意味である。 もともとの精神が大きくて5から10になる人もいるだろうし、 もともと小さくて0.1から0.2に増えたのもどちらも2倍の拡大だ。

芸術が理解できるようになると言っても「もともとの自分より」2倍理解できるようになるという意味合いに過ぎない。 レトルトカレーが「20%増量(当社比)」とか書いてある場合の「当社比」と同じだ。 本人比で2倍に増えたという意味である。

だから精神の拡大があっても芸術を広く深く理解できるようになるかというと個人差が大きい。 0.1から0.2への拡大であればそもそも理解するようにならないかもしれない。

芸術を一般人より上と書いたがややミスリーディングかもしれない。 たしかにモーツァルトであれば天上の音楽のようであり上というべきかもしれないが、 ガーシュウィンであればいい意味でもっと俗であり、人間的な音楽である。 ただガーシュウィンの音楽も上の部分をある程度含むのであり、一般人的な部分と芸術的な部分両方を含むと言える。 芸術が一般人より上だというのは、分かりやすくするために単純化して書いている。

精神の階層については古代ギリシャ哲学にも考察がある。 プラトンの魂の三分説である。

最上位が知性的部分、ロゴス的部分であり、中位が気概的部分、勇気、意志力とされ下層が欲望的部分、動物的部分である。 アリストテレスは人は自分自身の一番上の部分に即して生きるべきであるという。 欲望的部分、動物的部分は節制されるべきだという。

欲望的部分があるのは仕方ないが、それを中心にしてそれに従って生きるべきではなく、 あくまで魂の上位の部分に従って生きるべきというのである。

最上位の部分は知性的部分だけと考えるべきではない。道徳的部分、芸術的部分も当然ある。 それぞれ真、善、美に対応する。 図8を参照いただきたい。

欲望的部分に従って生きた例として『金瓶梅』という本を挙げる。 主人公の西門慶という男性がいる。大金持ちで人妻を含むたくさんの女性に手を出し贅沢三昧の生活を送る。 そして最後は没落していくというストーリーだ。 性的な描写が2割ほどある。

中国の明の時代万暦年間、だいたい1600年ころに書かれ、中国四大奇書に数えられる。 これを読んで「憐れむは菩薩、嫌悪するは君子、悦ぶは小人、真似するは畜生。」と言われる。

岩波文庫から全10冊で出ている。私は第8巻の途中まで読んだ。 非常に面白い。文章が非常に優れている。 「雲霞、紙に満ち」と評される。雲霞とは朝焼け夕焼けなどの美しい雲を指す。 確かに文章は美しく全編夕焼けの雲のようだと言われる。

文章の美しさと明の時代の商人の生活などか非常に鮮やかに書かれているためついつい読んでしまう。 性的な描写があるため読んだのだろうと言われれば全否定はしないが、そのような描写はそんなに多くない。 多いのはきらびやか料理の描写や女性たちの美しい服や飾り物の描写、人間関係の描写、商売の様子などがほとんどである。 さすがに8巻の途中まで読んで似たような内容なので飽きてきたので読むのをやめたが、 東西の古典を集めた岩波文庫で出版されるだけの内容はある。

岩波文庫では挿絵もありすこし漫画っぽくもある。

少し脱線するが『金瓶梅』はもとは『水滸伝』のスピンアウト的な作品である。ただし作者は別の作者だ。『水滸伝』は作者は施耐庵。『金瓶梅』は蘭陵の笑笑生というペンネームの人が書いた本だ。『水滸伝』で武松という豪傑が出てくるが、その兄に武大といううだつの上がらない人が出てくる。その嫁が絶世の美女、潘金連。しかしこの女は淫乱。西門慶というイケメンの金持ちとできてしまう。武大は嫁を寝取られた形となる。むかし自分の下半身に好きな人を寝取られた話があったがそれは例外。この西門慶は『水滸伝』では少ししか出てこないが、『金瓶梅』では主人公として登場する。ドラえもんでちょい役の出木杉君が別の漫画の主人公になるようなものだ。

『金瓶梅』を書いた蘭陵の笑笑生は実に名文家だ。読んでいて面白い。他に作品は無いのだろうか。あったら読んでみたい。小説でも漫画でもいい。

主人公の西門慶は欲望に従って生きた例である。

例えば性的な欲望に従い一時的な快楽を得るのは皆そうではあるが、性欲が満たされて幸せになった者はいない。 終わった後に逆に若干ブルーになる。

性欲が満たされて幸福にはならないが、しかし性欲が満たされずに不幸になる人は確かにいる。 男子中学生、高校生は性に飢えているが、性交渉に何らかの意義があるとすれば、 性に対する過剰な幻想を打破できる点かもしれない。

性欲が満たされないから不幸だと思っている人は、自分が不幸だと思い込んでいるのである。幻想の不幸である。 満たされれば幸福になると思っているが、実際はそれで幸福にならない。 満たされても満たされなくても大差はないのに、自分は不幸だと思い込むのだ。 「自分は不幸だ」と幻想を持つために本当に不幸になるのである。

性欲が満たされたあとのブルーな気持ちをよく覚えておけば、 性欲が生じた時もどうせ満たしてもブルーになるだけだとあらかじめ予想ができる。 多少は抑えが効くのだ。

西門慶のように金があり、女性がたくさんいて贅沢三昧なのをうらやましがる人もいるが、 それで幸福になるわけではない。

『金瓶梅』第3巻に次の詩がある。

明けりゃ屋敷でお酒盛り
暮れりゃ館で美人抱く
見た目楽しいようなれど
いわば消えゆく夕霞

『往生要集』に次の言葉がある。

皮膚病の人が燃え盛る炎に近づいたら、最初は心地よいが、後から苦しみが増してくるようなものである。 同様に貪欲な想いに身を任せても始めは楽しいかもしれないが、最後には憂いが多くなる。
賢い人はその点を理解してそのようなものに近づかない。

空海『秘蔵宝鑰』冒頭に次の有名な詩句がある。

原文
三界狂人不知狂
四生盲者不識盲
生生生生暗生始
死死死死冥死終

書下し文
三界の狂人は狂なるを知らず。
四生の盲者は盲なるを識らず。
生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く、
死に死に死に死んで死の終りに冥し。

三界とは欲界、色界、無色界の三つの迷いの世界であり、そこに住む西門慶や我々は自分が狂人であると気づいていない。

四生とは母胎から生まれた胎生、卵から生まれた卵生、湿気のある所から生まれた湿生、何もないところから生まれた化生の四つを指す。要は生き物全体を指す。我々凡人は盲者であるが自分が盲者であると気づいていない。

生まれる前のことはただ暗闇としてしか認識できず、死んだ後のことも暗闇としか認識できない。

我々皆そうではあるが、欲に耽る西門慶はこの典型例と言ってよい。金瓶梅を読むとその思いが強くなる。

空海の『秘密曼荼羅十住心論』や『秘蔵宝鑰』の異生羝羊心に欲望に耽る人たちの描写がある。『十住心論』はまだ読んでないので引用は出来ないが『秘蔵宝鑰』から一部引用する。

原文
空華眩眼
亀毛迷情

書下し文
空華眼を眩かし、
亀毛情を迷す。

「空華」とは眼を病んだ人がありもしない華を空中に見ることである。欲望を満たせば幸福になれると勘違いした人を指す。欲望を満たすことで得られる幸福は空華のようなものである。存在しないのだ。「眩かし」=「くるめかし」と読む。

「亀毛」とは亀には毛が無いが、藻などが亀にくっついて毛のように見えることを言う。欲望を満たすことで得られる幸福は存在しないのに存在すると我々は勘違いし心を惑わす。それが有りもしない亀の毛と同じだと述べている。「迷す」=「まどわす」と読む。

さらに引用する。

原文
渇鹿野馬奔於塵郷
狂象跳猿蕩於識都

書下し文
渇鹿野馬塵郷に奔り、
狂象跳猿識都に蕩る。

「渇鹿」とはのどの渇いた鹿。「野馬」とは野生の馬、陽炎と言う意味もある。渇鹿と野馬が水を求めて砂漠を走る。陽炎のせいで水があると思ってその方向に奔るが、その場に到達すると、水と思ったものは「逃げ水」のように消えてしまう。欲望を満たし幸せになれると思っていたが欲望を満たした途端、幸せは消えてしまうのを譬える。「塵郷」とは砂漠だが「色、声、香、味、蝕、法」の六塵の境と言う意味でもある。感覚的な欲望に従って生きる意味を表す。

「狂象」は文字通り狂った象。「跳猿」も文字通り飛び跳ねる猿。「識都」は「眼、耳、鼻、舌、身、意」の六根の認識が集まる所。これも欲望に走る意味を表す。「蕩る」=「とらかる」。やりたい放題の意味。

さらに引用する。

原文
強竊二盗迷珍財而受戮
和強両奸惑蛾眉而殺身

書下し文
強竊の二盗は珍財に迷いて戮を受け、
和強の両奸は蛾眉に惑いて身を殺す。

強盗と窃盗の二つの盗みを働く者は、珍しい財宝に心を惑わせて罰を受ける。 和姦と強姦の二つの姦を犯す者は、美女に惑って自分自身を滅ぼす。 「蛾眉」=「美人」の意味である。 この二句はまるで西門慶のことを言っているようである。

私は個人的には仏教のように禁欲主義と言うわけでは決してない。しかし欲に流れる西門慶を見ていると空海の言葉の意味がよく分かる。

空海の詩文は深遠にして熟読するに値する。

アリストテレスは欲望的部分ではなく上位の部分に即して生きよという。 それでは真善美に即して生きている人が金は欲しくないかと言われれば、 確かに彼らも欲しいはずである。 しかし彼らにとっては金は真善美をよりよく実現するための手段である。 真善美の手段としてほしいのである。 ギリシャのことわざに次の言葉がある。

賢者においては金は善き召使だが、
愚者においては冷酷な主人である。

賢者は金を真善美の実現のための手段として使う。 だから「善き召使」である。 愚者は金自体が目的であり、金が主人となって寒々とした人生を送る。 だから「冷酷な主人」である。

続きは仏教における天道をご覧ください。


■上部の画像は葛飾北斎
「女三ノ宮」。

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