人間の精神を簡単な図で表してみる。 図1を見ていただきたい。人間の精神を円で表す。 そして意識は無意識の上に浮かんでいる。
精神の大きさには人によって違いがある。 図2は図1より大きい精神を表している。
人間の無意識は子供の心、動物の心と言われる。 図3を見ていただきたい。 aの部分が子供の無意識でありbの部分が動物の無意識である。
子供の心、動物の心は全て無意識かというともちろん違う。 図4を見ていただきたい。 Aの部分は子供の心であるが、意識化されている。 我々は子供の心をある程度意識できる。 Bの部分は動物の心であるが、意識化されている。 我々は自分のうちにある動物の心をある程度意識できる。
我々は自分のうちにある感情や考えを外の人や動物に投影する。 我々には「楽しい」とか「悲しい」という感情がある。
だから他人が楽しんでいれば、「楽しいんだな」と思うし、 他人が悲しんでいれば「悲しいんだな」と思う。 自分のうちにある感情を他人にも当てはめて想像する。
図4のAで子供の心を自分のうちに持つ我々は子供の感情をある程度理解できる。 図4のBで動物の心もある程度意識化できる我々は、犬や猫がよろこんでいたり怒っていたら、 よろこんでいるとか怒っているとか理解できる。 同じ感情ではなくても似たような感情を我々も持つからだ。
精神の拡大は図5で示す。 精神が拡大しているのが分かるだろう。 仏道修行である。 健全な拡大であれば、大雑把に言って同心円状に拡大する。 上にも下にも横にも基本的には同時に拡大する。 ある特定の方向だけに拡大する方法は恐らくいびつな方法であり、 精神的に病む可能性がある。 精神の拡大の過程は、精神が不安定になりある程度危険な過程かもしれない。
最初に下に拡大する点から述べる。
図6をご覧いただきたい。 図3の場合より大きな精神を表している。
図3では子供の無意識、動物の無意識が部分的に意識化されていたのに対し、 より大きな精神である図6では子供と動物に加え植物の無意識も部分的に意識化されている。 自身が持つ植物的無意識を本人は部分的に意識化しえているのである。 その人のうちでは植物的「無」意識ではなく、植物的生命が部分的には「意識」になっている。
そういう人は植物を見た時に植物の無意識を感じ、樹々を生命的に感じる。 自分自身のうちに感じ取れる植物的生命を、目の前の樹に投影するからである。
彼らは「無意識」という回りくどい言い方はしない。 単純に樹々には精霊が宿るという。
だいたいそういう人は詩人か画家か宗教家になる。 現代日本にもそういう人は多くいる。 そういう人は通常の人より精神が大きいため植物に生命を感じる。 ただ必ず精神が大きいからという理由によるのかと言われればそうとは限らない。
学生時代に野矢茂樹先生という人の「科学哲学」という授業を受けた。 もう20年以上前、2000年になる前である。
「痛い」という感覚は単なる脳状態かという議論があった。
例えば宇宙人がいて「痛い」という感覚を全く持っていないとする。 その宇宙人が人間の脳状態を完全にスキャンして、 人間が痛がっているときの脳の物質的状況を完全に把握したとする。 その宇宙人は「痛い」という感覚を理解していると言えるか。
もちろん「痛い」という感覚は脳状態を伴う。 しかし「痛い」という感覚は単なる客観的物質的脳状態ではなく、 もし「痛い」という主観的精神的感覚を捨象したら、それを理解したことにならないというのだ。
もっとも我々も他人の脳状態を脳内スキャンで見ても「痛い」という感覚を想像しずらい。 脳科学の専門家でもない限り。 我々は脳内スキャンでは他人の痛みを理解せず、他人が痛がっている「顔」を見て理解するのだという。 もっとも人間性が現れるのはその「顔」である、とレヴィナスが言うのは本当かもしれない。
宇宙人は人間が「痛み」を感じているときの「顔」を見ても、痛みを理解できないであろう。 自分自身の中にない者は他人に投影できないからである。
植物的無意識の話に戻るが、自分自身の中で植物的生命を意識化しない人は 植物を見ても単なる物を見ているのと同じように見る。 痛がっている人間を見ても宇宙人が何も感じないのと同じである。
生命的にみられた時の樹のほうが、単なる物として見られた時の樹よりも、 本当の樹の姿に近いと私は思う。
ひとつの理由はすでに述べたように、生命的にみる人は自分自身の植物的生命を意識化しているからである。 痛みを感じている人を宇宙人が見るときよりも、我々が見る場合のほうが真実に近いように。
もう一つの理由は生命的にみるほうがより大きな精神から樹を見ているからである。 精神の拡大が起きると以前より樹を大局的に見れるようになり、同時に微細に見れるようになる。
そこで何が起きるかというと樹が生命的に見えるようになる。 AIが発達してもこの生命的にみるという見方は獲得しないのではないかと思うが、 人間の精神の拡大ではこれが生じる。
より大きな精神で見た樹の姿のほうが、樹を表面的に見るのではないため、 より真実の樹の姿に近いというわけである。
物自体という概念がある。曲解してこの言葉を使う。 物の本当の姿を物自体と考えると、 精神が大きくなればなるほど、樹の本当の姿、物自体としての樹に無限に近づいていけるのかもしれない。 しかし人間には物自体に無限に近づくことはできても、最終的にそれに到達はできないということになる。
生命的に樹を見るほうが本当の姿に近い理由を二つ述べたが、 どちらの説明のほうが的確かよくわからない。 両方とも正しいと思うが、これ以上うまく説明する能力が私にはないので、次に進む。
以上が精神の拡大の下のほうへの拡大に関する説明である。
続きは精神の上への拡大をご覧ください。
■上部の画像は葛飾北斎
「女三ノ宮」。
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