プラトンとアリストテレス

我々は日常生活で目にする具体的世界が確かな現実だと思う。 そして「神」や「仏」のような普遍的概念は抽象的であり、存在するかわからないと思う。

井筒俊彦の『神秘哲学』から引用する。

己が身辺を取りかこむ諸多の事実については一葉一石はおろか塵埃の末に至るまで 悉く異常なる鮮明度をもって映し出す彼の両眼も、 ひとたび遥かなる地平の彼方に向かって注がるるときは 全ては濛々たる雲にかすんで徒に虚空の無を見るのみであろう。 まさにその如く、普遍的存在は普遍性を増すにつれて、 これを遥かに眺める自然的認識主体にとっては次第に無に向かって遠ざかり、 その極限に至って遂に完全に無に帰没する。
井筒俊彦『神秘哲学』

我々は具体的世界は一枚の葉、一つの石に至るまで現実と思う。 しかし「神」や「仏」など普遍的存在はそれが普遍的であればあるほど、 現実性を失い、抽象的になり、あまりに普遍的であればそれは存在しないとみなされる。

しかしムハンマドにとって神との出会いは非常に強烈な体験であって、 彼にとっては具体的世界より、神という普遍的な存在こそが現実的であったはずである。

聖徳太子の言葉として「世間虚仮、唯仏是真」という言葉がある。 具体的世界である世間は仮の世界であり、仏こそが真実だというのである。

やはり具体的世界よりも普遍的な存在こそがより現実的だと言う人が少数ながらいるのである。

同じく井筒俊彦の『神秘哲学』から引用する。プラトンの作品におけるソクラテスの言葉の要約である。

凡そ人間の霊魂にはかかる高次の存在を認識する特殊な能力とそれの器官が内在しており、 それによって人は高次の学的認識を行い得るのである。
霊魂が真実在および真実在中の最も光燿燦爛たるもの則ち「善のイデア」の観照にも堪え得るまでに至らなければならぬ。
井筒俊彦『神秘哲学』

プラトンは人間には普遍的存在を認識できる能力が元々備わっていると言っている。 しかし多くの人は普遍者を見ようとしないと指摘している。 「善のイデア」がプラトン哲学における最高の普遍者である。

凡人を代表してプラトン大先生に反論するが、我々は普遍者を認識する器官をもっていない。 ただ私は精神の拡大が生じれば、普遍者を認識する能力を獲得しえるのではないかと考えている。 人間にはそのような認識を行える「可能性」はあるのである。

図14を参照いただきたい。精神の拡大が進むにつれ「普遍者を認識する部分」が開発される。

凡人である私にはなかなか理解しがたい世界である。 もっとも神や仏は我々には認識できないが、 真善美であればよくわかるという人はいるだろう。

金銭欲や性欲のようにある意味「現実的」なものより、 真善美というある意味「抽象的」と言われるもののほうがより一層現実的であるという人はいる。

会社で責任ある仕事をしている人は金銭欲や性欲より、会社への責任という「善」のほうが現実的かもしれない。

高次の普遍者を重視する人物のほうが優れた人物であるかのような書き方をしているが、必ずしもそうではない。 例えば古代ギリシャ哲学で高次の普遍者を重視する人物の代表は、先に引用したプラトンである。 そして低次の具体的個物を重視する人物の代表ががアリストテレスである。

二人とも偉大な哲学者だが、プラトンは宗教家に近く、アリストテレスは科学者に近い。 図15と図16を比較していただきたい。精神の大きさは両者で同じである。 しかし、おそらくプラトンの精神は上のほうにずれており、 アリストテレスは下のほうにずれていると推定する。


ラファエロに「アテネの学堂」という有名な絵画がある。下の画像である。 人が学堂にたくさん集まっている。 古代ギリシャの哲学者たちが勢ぞろいしている絵画である。

その中心に二人の人物がいる。下の画像がその拡大図だ。 中心にいるのはプラトンとアリストテレスである。 左にいる天上界を指さす人物がプラトンであり、 右にいる個物を示す人物がアリストテレスである。 プラトンは天上界を実体と考え、アリストテレスは個物を実体と考える。

人はプラトン的人物とアリストテレス的人物のどちらかに分かれる。 そして相互に対立しあっている。現代ではアリストテレス的人物のほうが圧倒的に多い。

ユングに『タイプ論』と言う本がある。人間の性格を分類した本である。 序論のさらに冒頭にハイネによるプラトンとアリストテレスに関する言葉が引用されている。 孫引きになるが引用する。

プラトンとアリストテレス!これは単に二つの体系であるにとどまらず、 むしろはるか昔からあらゆる衣装をまとって多少とも敵意をもって対立してきた 二つの異なる人間のタイプでもある。この二つのタイプはおもに中世全体を通じて、 しかし今日に至るまで戦ってきたが、この戦いこそキリスト教会史の最も重要な内容をなしている。 たとえ別の名前を名乗っていても、内容はいつもプラトンとアリストテレスの対立であった。

プラトン的タイプの多いはずのキリスト教会でもやはりプラトンとアリストテレスの対立は存在する。 とすると恐らくどの分野にもこの対立は存在するのではないだろうか。 皆さんの周りではどうだろうか。

どちらが偉いというわけでは決してない。どちらも重要である。 しかしこの二つのタイプの人間は相互に理解しあわない場合が多い。

高遠で魅力的なのはプラトンかもしれない。 しかし科学やビジネスなど現実で成功しやすいのはアリストテレスである。


■上部の画像は葛飾北斎
「ホトトギス聞く遊君」。

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