孔子の理論

 『論語』を読んで多くの人が持つ印象として、理論がない、という感想がある。非常に具体的であり、抽象的な理論が『論語』にはない。 そして表面上は高遠さがなく、表現は非常に身近である。

 里仁第四に次の言葉がある。

書下し文 
子曰く、古者言の出ださざるは、身の及ばざるを恥じるなり。

現代語訳 
孔子がいわれた。昔の人が軽々しく言葉を出さなかったのは、内実が言葉に及ばないのを恥じたからである。

 上記の言葉は孔子の生涯を貫く主義であり、孔子は高遠な言葉を滅多に話さなかった。

 また身近な言葉で思想を表現すると言うのは儒教に一貫する通奏低音である。

 子張第十九に次の言葉がある。

書下し文 
子夏曰く、博く学びて篤く志し、切に問いて近く思う。仁その中にあり。

現代語訳 
子夏が言った。広く学び、深く志し、切実な問題から問い、身近な事柄に引き付けて考える。仁はその中にある。

 『論語』においてもその内容は身近であり、高遠さや理論は表面上はほとんどない。

 しかし聖人の思想は身近でありながらも高遠さをあわせ持つのであり、聖人は高遠な自らの思想を身近な言葉で表現しえるのである。孔子自身に高遠な思想もあったはずである。 そして理論もあった可能性は否定できない。孔子はそのような理論を弟子たちに語らなかっただろうか。

 子罕第九に次の言葉がある。

書下し文 子、罕に利と命と仁を言う。
現代語訳 孔子は利益と天命と仁についてはまれにしか語らなかった。

 上記から分かるのは、孔子は天命や仁のような高遠な理論を、弟子たちにまれにではあるが語った、と言う事実である。

 公冶長第五に次の言葉がある。

書下し文 
子貢曰く、夫子の性と天道を言うは得て聞くべからざるなり。

現代語訳 
子貢が言う。先生が人の本性や天の道について語られた内容は理解できない。

 『論語』の諸訳を確認したところ上記は通常「先生は人の本性や天の道について語られなかった」と訳すようである。 私はあえて上記のように訳したが、『近思録』致知篇の張横渠の解釈に従った訳である。該当箇所を引用する。

書下し文 
子貢謂う。夫子の性と天道を言うは、得て聞くべからず。すでに夫子の言といえば、則ちこれ居常にこれに告げしなり。 聖門に学ぶ者は仁を以って己が任となし、いやしくも知るを以って得ると為さず、必ず了悟を以って聞となす。よりてこの説あり。

現代語訳 
「先生が人の本性や天の道について語られる内容は、理解できない。」と子貢が言う。先生の言葉というからには、孔子はその話をされていたのであろう。 聖人の門下で学ぶ者は、耳にしただけで会得したとは考えず、深く悟るのを「聞」と言うのである。それでそのような話があった。

 孔子は弟子たちに稀に人の本性と天の道という儒教の根幹たる理論を話そうとしたが、弟子たちは理解しなかったのである。 孔子の弟子たちは優秀である。そして彼らは孔子に倣って非常に謙虚でもある。孔子の理論を概念的に理解できても真意は理解できないと、子貢は謙虚に述べるのである。 そして上記の文は孔子が人の本性や天の道についての理論を本当は持っていたと推測させる一文である。

里仁第四に次の言葉がある。

書下し文 
子曰く朝に道を聞きては夕べに死すとも可なり

現代語訳 
先生が言われた。朝に道を深く悟ったならば夕べに死んでもよい。

『論語』の諸訳を確認するとやはり「聞く」を単に「聞く」と訳している。 私は上記の張横渠に従って、「深く悟る」と訳した。そうしないと論旨が通らない。 単に「聞く」では意味が通らない。 道についての言葉をよく理解せず単に聞いただけで「夕べに死んでもよい」とはならないはずである。 道を「深く悟った」のであれば「夕べに死んでもよい」は意味が通る。 道を深く悟るというのはそれほど得難い体験という意味になる。

やはり「聞く」という言葉は孔子の学派では特別な意味で用いられていたようである。 そうすると上記の「夫子の性と天道を言うは得て聞くべからざるなり。」も 「先生が人の本性や天の道について語られる内容は、理解できない。」となり、 孔子は本性や天の道についても弟子たちに稀に語っていたと解釈すべきだと思う。 そして弟子たちはその内容を理解しなかったのである。

述而第七に次の言葉がある。

書下し文 
子曰く、二三子我を以って隠すと為すか。吾隠すこと無きのみ。吾行うとして二三子と興にせざるもの無し。是れ丘なり。

現代語訳 
孔子がいわれた。諸君は私が隠し事をしていると思うのか。私は隠しごとなどしていない。私が行う事柄で諸君とともに行はないものはない。これがわたし、丘なのだ。

 弟子たちは孔子が隠し事をしていると感じたようである。その疑いはある意味当たっている。孔子は自分の高遠な理論は弟子たちになるべく教えないようにしていたはずである。 しかし「隠す」という後ろめたい表現は孔子の真意に反する。

 何を行うにしても諸君たちと一緒に歩む、これが私の生き方なのだ、と孔子は言う。道を志すのを登山に例えれば、自分だけ山頂に居て左うちわでいて、 山頂から弟子たちにいろいろ指示するというのではなく、弟子たちのところまで降りてきて一緒に山に登る、それが孔子の人生であったのである。

 孔子が弟子たちにその理論を語るのをやめたのは、ひとつは弟子たちがそれを理解しないからである。しかし、理解しないだけならばよい方である。 一番よくないのは、孔子の理論を言葉上だけで表面的に理解し、真意を理解していないのに、孔子に倣って高遠な理論を並べ立てる弟子が現れる場合である。空虚な高論となる。 弟子たちとともに歩むのを主義とする教育者孔子はそれを最も恐れたのではないかと思う。

続きは大学と中庸をご覧ください。


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