ラ・ロシュフーコー『箴言集』65に次の言葉がある。
思慮深さには惜しみない賛辞が与えられる。しかしその思慮深さは、ものごとの成り行きや結果については、一寸先のことも保証してくれないだろう。
人は思想の内容が充実していると、その思想は現実世界でもうまくいくと短絡的に考える。ラ・ロシュフーコーはそれは間違えているという。思想がすぐれているのとその思想が実現可能であるというのはイコールではない。いかに思想がすぐれていても現実世界での成功失敗は、「一寸先は闇」なのである。
自らのすぐれた思想に酔って、それを短絡的に現実化しようとして失敗した人は、歴史を読むと非常に多い。古今東西、常に現れる。歴史は繰り返すようである。
では思想や理想はいらないかというと、それも違う。一貫した思想を持たず、目の前の短期的な利益のみを追求し、機会主義的でその場その場で得しそうな方向に巧みに動く人たちは、大きな仕事をしない。
歴史を見てうまくいった人たちのほとんどは、首尾一貫した思想を持ち、思い通りにいかない現実と格闘したひとたちである。
機会主義的な人たちは理想を持たない。「現実的に過ぎる人」である。現実を無視して短絡的に理想を行う人は現実を無視する。「理想主義的に過ぎる人」である。理想を持ちながら、現実と格闘する人が、理想と現実の中庸を行う人である。
理想と現実の中庸を行えば、必ずうまくいくかというと、そうではない。うまくいく場合もあるし、失敗する場合もある。
最近フランスの歴史の本を1冊読んだ。あのフランス革命でさえ、「一寸先は闇」のような状態で、次々と事件が展開していく。日本の幕末も「一寸先は闇」だった。勝海舟、坂本龍馬、大久保、西郷たち、少しは全体像が見えていた人たちですら、万能からは程遠い。思想通りに現実をコントロールなどできない。ラ・ロシュフーコーのいう通り、すぐれた思想があっても現実では「一寸先は闇」だからである。歴史上で大きなプラスの影響を与えた出来事のほとんどは、理想と現実の格闘の結果である。
すぐれた思想があってもうまくいくと期待してはならない。「一寸先は闇」である。逆に言うとすぐれた思想が現実で失敗しても、落ち込む必要はない。もともと「一寸先は闇」であるから、その都度、障害物を乗り越えるか、迂回していけばいいからである。
■2024年12月21日追記。
プログラムコードを書いて、「これで完璧なプログラムだ」と思っても動かしてみれば必ずエラーが生じる。仕事でマニュアルを完全に覚えて、「これで完璧だ」と思っても、実際の顧客対応をすれば、予想外の展開がたくさん生じる。すぐれた思想であっても、それを現実に応用する場合は、予想外の展開が生じる。その都度修正していくしか正しい方法はない。
■追記終。
「必ずうまくいく」という人は、人々の士気を鼓舞するために言っているのであれば、よく分かるが、本気で言っているのであれば、その人は神のような知恵を持っている人である。理想と現実のハーモニー型中庸を行える人。そんな人はいないとすれば、その人は先に述べた「理想主義に過ぎる人」である可能性が高い。現実無視で失敗するだろう。理想と現実のバランス型中庸を執る人は「どう転ぶか分からない」と言うはずである。
今回のシリーズを載せたのは、時期尚早であり失敗だった。時期を見て削除しようかとも思っている。『菜根譚』に次の言葉がある。
書下し文
事窮まり勢蹙まる人は、まさにその初心を原ぬべし。功成り行満るの士は、その末路を観んことを要す。
現代語訳
ものごとに行き詰り、うまくいかなくなった人は、その初心にかえるべきである。すでに仕事をなして名誉を得た人は、その行く末を見定めることが必要である。
今回のように失敗したときは、初心にかえり、正しい思想をつくることに、いままでどおり専念すべきなのだろう。
■作成日:2024年12月16日。
■上部の画像は葛飾北斎
「女三ノ宮」。
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