次は日本人が中国思想を読まないほうがいいかもしれない理由を書く。
理由①。部分の理解と全体の体系のサイクルが発動すると、思想体系が得られると述べた。では中国思想を学べば必ずこのサイクルが発動するかというとそうとは限らない。
中国思想を生涯かけて勉強している人でも、このサイクルが恐らく発動していない人はたくさんいる。細かい知識は多くても体系的思想を持たない人は多い。
しかし逆に知識はまだそんなに多くないのに、情熱をもって古典を読み、体系がある程度できている人もいる。
どういう場合に、サイクルが発動し、どういう場合に発動しないのか、私のなかではまだ原因は明らかになっていない。
ひとつの可能性は、「人文科学」として思想を勉強している人はサイクルが発動しないのかもしれない。死んだカエルを冷静に解剖するような仕方で思想を勉強している人。素直に思想を思想として読む人は発動するのかもしれない。科学自体はもちろんそれ自体、重要であるが、思想は科学と若干違う。
ただ原因はよく分からない。
理由②。日本人は表面的には西洋化されているが、深いところでは伝統的日本人であり、東洋人である。だから中国思想をある程度深く理解できる可能性がある。私自身、中国思想のほうが深く吸収できた。
しかし確かに深いところでは東洋人だが、表面的には西洋化されている。だからいきなり中国思想を読んでも、思想入門段階だと深いところまで到達せず、良く理解できないという現象が生じるかもしれない。私自身中国思想を深く理解できるようになったのは、西洋思想を表面的にであれ、学んだ後である。表面的に西洋化されているので、入門段階、最初の表面的段階では、西洋思想から入るべきである可能性はある。
理由③。仮に中国思想により、日本人が体系的思想を得られたとして、それをビジネスの応用できるかも未知数である。ビジネスは基本的には西洋由来の思想でできている。中国思想でえられた体系を、西洋思想がもとになっているビジネスに応用できるかは分からない。
西洋思想は合理的にできている。中国思想もある程度合理的にできている。両者の相性は悪くはない。しかしそれほど良くもない。だから応用できるかは未知数である。
理由④。それは儒教が古い点である。その本質はむしろ新しいが、その装いが古い。出てくる例が古い。周の文王とか管仲とか言われても、ほとんどの人はピンとこない。
古典はスルメのようなものだという。戻すのに時間がかかる。もちろんかめばかむほど味が出るということでもある。理解するまで数年かかる。金銭的コストはかからないが、時間的コストがかかる。これもおすすめに二の足を踏む理由である。
結局、日本人は中国思想を読んだほうがいいのかという問いに答えを出すとすれば、例えば私の記事で中国思想の引用を読んだ時に、面白いと思った人は読んだほうがいいのだろう。恐らく中国思想に向いている。面白いと思わなかった人は読まないほうがいい。ブッダが、「苦行があなたの役に立つと思えば行いなさい。役に立たないと思うならやめておきなさい。」と言ったという。それと同じだと思う。
理由①、サイクルが発動しないかもしれないという理由の対策。これはまずは現代日本人に中国思想を読んでもらう必要がある。恐らくサイクルが発動せず失敗する。そこでサイクルが発動しない理由、日本人が儒教を理解するうえで支障となっている原因をたくさん確認し、ひとつひとつ潰していく必要がある。
思想は時にきれいだが、現実は泥臭い。思想を書くときはきれいに終われるが、その思想を日本人に広める現実の段階では試行錯誤を繰り返す必要がある。
下図をご覧ください。
画像引用元:こあらの学校さんのツイート。
松下幸之助に次の言葉がある。
五つや六つの手を打ったくらいで、万策尽きたなどと言ってはならない。
プログラマーがプログラムコードを書く。完璧にできたつもりだが、実際動かしてみると必ずエラーが起きる。バグがある。仕事でマニュアルを覚えて、これで完璧だと思う。しかし実際マニュアルにもとづいて顧客対応をしてみると、必ず予想外の展開が起きる。完璧な計画を立てて実行しても必ず最初は失敗するものである。
成功するまで何度も失敗し、試行錯誤することで理由①は乗り越えられるかもしれない。
それではその作業をすぐにすべきか。仮に行ったとする。それでもやはりサイクルが発動するのはかなり限られてくると思う。それは理由②による。日本人は表面的に西洋化されているので、中国思想をすぐには深く理解できない可能性が高い。もっとも、個人差はある。一部の人はサイクルが発動するかもしれない。しかしその場合でも、ビジネスへの応用はさほどうまくいかないだろう。それは理由③による。ビジネスのもとにある西洋思想と中国思想の相性の問題である。
結局、いますぐ中国思想を広めたところで、「一部の人は理解しました。しかしその人たちもビジネスへの応用はそんなにうまくいきませんでした。」で終わる。ほぼ確実にそうなる。
理由②と理由③の克服には、西洋思想と中国思想と現代日本の合成が必要。合成思想があれば、その思想に西洋思想と現代日本の要素が混ざっているので、理由②を乗り越える。日本人は表面的に西洋化されているが、合成思想には西洋思想の要素があるので、理解されるだろう。同じように理由③も乗り越えられる。中国思想と西洋思想の相性の問題だが、合成思想では両者はすでに合成済なので、ビジネスなどの現代的問題に応用できると思われる。
理由④だが、儒教が表面的に古いのはどうしようもない。ひとつの方法は中学校や高校の授業で古文、漢文の授業を少し増やすなどの方法もある。それも悪くはない。しかし恐らくそれには及ばない。合成思想の質が本当に良ければ、現代日本人により、その合成思想を使ったいろんな思想や行動が生じるだろう。それらの言動においては現代日本の例が用いられる。だから表面的にも新しい思想が生まれると思われる。理由④は当面は問題だが、将来的には問題ではなくなると思う。
いづれにしても、現段階ではすぐに儒教を現代日本に広めるより、静かな環境で、西洋思想と中国思想と現代日本の合成思想をつくることに専念したほうがいいと思われる。しかしその肝心の合成思想はまだできるめどがたっていない。
いろいろ述べたが、現実はもっと泥臭い。仮に合成思想ができたとしても、私が述べたようにすらすらとはうまくいかないだろう。おそらく試してみてもうまくいかないということはある。理論を現実で試すと、整然たる理論が、混沌たる現実の前で通用しないというのは歴史において常に生じることである。そのたびに原因を確認し、しらみつぶし的に対応していく以外にない。『大宰相』に鳩山一郎の言葉として次の言葉がある。
政治は現実だからな。今、国益によいことは現実的に行うのがよいのだ。そうしながら理想に近づいていくのが、党人というものさ。
私が行おうとしているのは政治ではない。思想をつくるまでは理念の世界である。しかし思想を実際に現代日本に広める過程は、理念ではなく現実世界と言ってよいだろう。
いろいろ述べてきたが、この内容は本来わたし個人の心の中にとどめておくべき内容である。自分の考えをまとめておくために書いておいた。こうやっていろいろありうる選択肢を考え、どれを優先するかという順番を考えるのも、一応「戦略」と言っていいのかもしれない。
続きは思想と他分野の相乗効果をご覧ください。
■作成日:2024年12月6日。
■上部の画像は葛飾北斎
「女三ノ宮」。
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