蛇口をひねって水を出し、器に水を少しづつ溜めていく。器が水でいっぱいになったら、水は器から自然とあふれ流れ出し、道をつくっていく。
現代日本に中国思想を含む思想の真理を伝えていく過程は、器に水をためていく過程に似ている。私の記事はそれを目指している。中国思想の魅力が現代日本に十分に伝わり、蓄積されると臨界点を超える。水が器から流れ出すように。「じゃあ、中国思想の古典を読んでみようかな」と現代日本人が思う。その時は恐らくもっと理解しやすくなるだろう。自然と思想が広まっていく。これは水が器から自然とあふれ出して道をつくっていく過程に似ている。
今回この「日本人は中国思想を読むべきか」というシリーズを発表したのははっきり言って失敗だった。内容が間違えていたのではない。発表した時期が間違えていたのだ。
器から水が自然とあふれ出す段階になってはじめて、水の流れる方向を示すべきである。中国思想の魅力が十分に伝わった後に、中国思想を勧めるべきだった。その前に記事を発表してしまった。器に水が溜まっていないのに、手で強引にバシャバシャと水をかきだして、流そうとしてしまったのだ。あせって文章を書くとろくなことにならない。物事の正しい順番を無視してしまったのである。
『大学』に次の言葉がある。
書下し文
物に本末あり、事に終始あり、先後する所を知れば則ち道に近し。
現代語訳
物事には根本と末節があり、事柄には最初に生じることと最後に生じることがある。何が先であり何が後であるかを知れば、道を知ったのに近い。
『論語』に次の言葉がある。
書下し文
君子は本を務む。本立ちて道生ず。
現代語訳
すぐれた人はものごとの根本を大切にする。根本が充実すれば物事は自然にうまくいく。
「器に水がたまる」のが「根本」である。「水が流れ出す」か「末節」である。「器に水がたまる」という根本が充実すれば、自然に「水が流れ出す」という末節が生じる。「中国思想の魅力が十分に伝わる」という根本が充実すれば、「現代日本人が中国思想を読む」という末節が自然と生じる。
根本が充実すれば、末節はある程度自然に生じる。根本が充実してから方向付けすべきなのに、充実する前に先走って方向付けしたので失敗してしまった。根本と末節に関する長編の記事を書いておきながら失敗したのは情けない限りである。
水が器からあふれるまえに手でバシャバシャと水を流そうとするのは、悪い意味での人為である。器から水があふれ出して、その時に方向付けするのが、良い意味での人為である。儒教はそのように考える。
老子はもっと極端である。バシャバシャと水を手で流そうとするのが悪い意味での人為である点は儒教と老子で共通している。そのような方法は今回の私の失敗と同じで、副作用、悪い影響を生じる。そこは老子と儒教で共通の認識である。しかし老子はそこからさらに進み、人為をすべて無くすという結論に至る。『老子』から引用する。
書下し文
学を為せば日々に増し、道を為せば日々に損ず。
これを損じて又損じ以って無為に至る。
無為にして為さざる無し。
現代語訳
学問をすれば知が日々増えていく。
道を修めれば人為が日々減っていく。
一つ減らしさらにもう一つ減らしついには無為に至る。
無為にして全てを行える。
水があふれ出した時になってはじめて正しい方向付けをするというのが儒教の考えであるのに対し、適切なタイミングでの方向付けさえも、老子は人為として排除しようとしているように思われる。これは明らかに行き過ぎである。
手でバシャバシャと水をかきだすという人為を行うと人為を行ったということが記録に残る。しかし水が自然とあふれ出すのを待つという自然なやり方を用いると、何も行わないため記録に残らない。『老子』からさらに引用する。
書下し文
善く行くものは轍迹なし。
現代語訳
すぐれた行き方をするものは轍の跡を残さない
意訳
優れた行動をするものはその仕事が歴史には残らない
自然なやり方をとる道を体現した人は、人為を行わないので、その仕事は記録に残らない。歴史にも残らないという。中国の歴史を読むとそのタイプの人ではないかと推測される人物が時々出てくる。たしかに歴史には残っているが、その仕事の大半が記録に残っていないと推測される人が時々いる。
『老子』第十七章から引用する。
書下し文
功成り事遂げて、百姓みな我自ら然りと謂う。
現代語訳
事業が成功し、仕事が完成して、人々は「ものごとは自然とそうなったのだ」と言う。
自然な方法をとる道を体現した人は、自然な方法で世の中を導く。だから、人々はその事業は道を体現した人の仕事だと思わない。「自然にそうなったんだ」と思う。さらに引用する。
書下し文
太上は下これ有るを知るのみ。
現代語訳
最も優れた君主は、人々はその存在を知るだけである。
自然な仕方で人々を導く君主は、人々はその人のおかげで世の中が良くなっているとは気づかない。その存在を知るだけである。
老子は、もちろん読む価値は大いにあるが、中庸が執れていない。正しい意味での人為すら排除する。儒教は適切なタイミングでの人為は大切だという。儒教は積極と消極の中庸が執れている。積極的真理と消極的真理の両方を指摘する。老子は消極に偏り過ぎである。消極的真理のみを指摘する。老子は中庸が執れていない。だから深遠に見え、面白くなる。儒教は中庸が執れている。だから眠たい。しかし儒教のほうが、正しい効果を生む。『中庸』第十九章に次の言葉がある。
書下し文
君子の道は闇然として而も日々章かに、
小人の道は的然として而も日々に亡ぶ。
現代語訳
すぐれた人の道は人目をひかないのに
日に日にその真価が表れてくるが、
普通の人間の道ははっきりと人目をひきながら
日に日に消え失せてしまう。
中庸の執れた儒教のぼんやりとした平凡な表現のほうが、極端な老子の魅力的な表現よりも、正しい効果を生む。思想をその内容で評価する人もいる。その表現で評価する人もいる。思想をその表現で評価する人は儒教より老子が好きなんだと思う。
中国の歴史で安定していた時代は儒教が主流だった時代に多い。それに対して老子が流行した4、5世紀は暗黒時代である。中庸が執れた思想を持つイギリスは国全体の運営がうまくいったのに対し、高遠なドイツ思想は最終的にバランスの執れないヒトラーを生んでしまった。ドイツ思想が偉大であることは論を待たない。しかしバランスを執ることも同じように重要なのである。
儒教は四季の流れというものを重視する。いくら畑を耕しても春にならないと穀物の芽は出ない。いくら刈り入れを急いでも、秋にならないと穀物は実らない。種を植えてまだ芽が出ないかと、種をいちいち掘り返してチェックしたり、早く収穫が欲しいからと言って、秋になっていないのに刈り入れをすると、作物は実らない。悪い意味での人為である。遅すぎず早すぎず、四季の運行という「天」の時にのっとって、作物という「地」の状況を見ながら、畑の耕作と刈り入れという「人」の働きを行う。
計画も正しい順番、正しい時期がある。それを無視してあせると確実に失敗する。ゲーテに次の言葉がある。
すぐれた人で、即席やお座なりには何もできない人がある。そういう人は性質として、その時々の事柄に静かに深く没頭することを必要とする。そういう才能の人からは、目前必要なものが滅多に得られないので、われわれはじれったくなる。しかし、最も高いものはこうした方法でのみ作られる。
別に私の思想が「最も高いもの」というつもりは全くない。私の計画がうまくいくとは限らない。むしろうまくいかない可能性のほうが高いだろう。ただ、あせってものごとを行うと確実に失敗するということは間違いない。
『菜根譚』前集161に次の言葉がある。
書下し文
善を為して、その益を見ざるも、草裡の東瓜の如く、自ずから当に暗に長ずべし。
悪を為して、その損を見ざるも、庭前の春雪の如く、当に必ず潜に消ゆべし。
現代語訳
善い努力をして、その効果はいまだはっきりとは現れなくても、草むらの冬瓜のように、努力の種は気づかぬうちに成長し、いずれ自分のためになるだろう。
悪いことを行い、その害はいまだはっきりとは現れなくても、庭の春の雪のように、知らないうちに消えて、いずれ自分自身を滅ぼすであろう。
野村監督の『野村の結論』に次の言葉がある。長くなるが引用する。
「努力に即効性はないが、努力は裏切らない」。
よく、「伸びていく人間と、伸びない人間のちがいはどこにあるか」といったことをよく聞かれる。たしかに将来を期待されながら、活躍することなく消えていく選手もいるし、入団当初はまったく期待されていなかったのにメキメキと力をつけて一軍で活躍する選手もいる。このちがいはいったいなんだろうか?
ひとつ言えるのは、伸びなかった人間に共通しているのは、「努力に即効性はない」ということを理解していなかったということだろう。結局、この世界で成功するかしないかの境目は、愚直なまでに最後まで努力できたがどうかでしかないと私は考えている。
努力すれば何とかなる。努力にまさる天才なし・・など、いとも簡単に、人は「努力」という言葉を使うが、本当の努力というものはそう簡単なものではない。
努力は地道なものである。
やがて大きな成果につながるということが頭ではわかっていても、それを継続することは並大抵の意思ではかなわない。しかも、すぐに結果に結びつくわけではないからまた厄介なのだ。今日たくさん素振りをしたからといって、明日の試合で打てるわけがない。その効果は、ジワジワと表れるものなのだ。
しかし努力は無駄にはならない。いつか必ず報われる。
私も日々努力しているが、残念ながら努力には即効性はない。すぐには成長せずじれったくなる。しかし「草むらの冬瓜」のように、知らないうちに徐々に成長していっているはずである。
あとネット上である人が言っていた。うろ覚えだが、引用する。
Aさん:成功するうえで一番大切なことは何だと思いますか?
Bさん:継続することです。継続は大きな力を生みます。
Aさん:そのとおりです。でもそれは2番目に大切なことです。
Bさん:どういうことですか?
Aさん:1番大切なことは、「それ」を継続することで大きな力を生む、その「それ」を見つけることです。
これも一理ある。私は思想の合成を試みようとしている。おそらくそれを継続することで大きな力を生むと思っているからである。
努力に即効性はないが、悪にも即効性はない。人は若いころは純粋さを保ち、素直に幸福を感じる心を持っている。悪に染まると最初はあまり問題がないが、だんだん心がすさみ、幸福を感じる心を失っていく。寒々とした人生を送るようになる。
悪にも即効性はない。最初は幸福を感じる心を持っている。欲に従い快楽を得ると、もともとの幸福にプラスして快楽も得られるので、多くの人はそっちを選ぶ。しかし悪は徐々に効果を現し、心をむしばみ、幸福を感じる心は「庭の春の雪」が消えるように、徐々になくなっていく。
善にも悪にも即効性はない。自然の摂理なのか神のはからいなのか分からない。『菜根譚』の言葉を再度確認いただきたい。
続きはうつくしい理想。混沌とした現実。をご覧ください。
■作成日:2024年12月18日。
■上部の画像は葛飾北斎
「女三ノ宮」。
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