現代日本人には中国思想がお勧めである。しかし恐らく現段階で中国思想を読んでもほとんどの人にとっては、面白くないだろうと思う。理由はいくつかある。
ひとつめは儒教が古いという点。儒教はその本質は新しいのであるが、その装いは古い。深いところは新しいが、表面が古い。最初読むときは表面から入るので、装いの古さがまず目に付く。
ふたつめの理由は同じことだが、儒教が現代日本人向けに書かれていない点にある。例えば私の文章は完全に現代日本人向けに書かれている。しかし古典は現代日本人向けに書かれていない。
海外料理を日本にあるレストランで食べて、おいしいと思っても、海外旅行で本場の料理を食べてもピンとこないという経験はないだろうか。日本で食べる海外料理は日本人向けにアレンジされていたり、日本人が好きそうなメニューが選ばれていたりする。だから日本人はおいしいと思う。しかし海外で食べる本格的な料理は、日本人向けにアレンジされていない。だからピンとこないということが生じえる。
思想も同じである。古典は現代日本人向けに書かれていないため、読んでもピンとこないということが生じる。
もうひとつの理由は、ある意味、儒教特有の理由だが、儒教はぱっと見た感じ、とても平凡であるという点にある。通常思想というものは難解すぎて高遠すぎて、分かりづらいという欠点を持っている。しかし儒教は分かりやすすぎて逆に分かりづらいという特徴がある。一見分かりやすいので、その本当の意味を理解せず、素通りしてしまうのである。
20才のころ、大学で西洋思想を勉強していた。同学年の非常に優秀な学生と、「東洋思想を学ぶなら仏教だよね。」「儒教は面白くない」と話をしていた。それを聞いていた先輩が、「そんなことはない」と強く否定していたが、当時の私にはピンとこなかった。
私が儒教に目覚めたのは大学を中退した後、25才の時である。『大学』『中庸』を読んで、「こういう意味だったのか」と思った。中国思想が平凡でつまらないという感想はよく分かる。私自身がそうだったからである。
古典の中で、一見平凡な思想というのは、時々現れる。共通しているのは中庸を重視する思想という点である。儒教のほかにも例えば、近代のイギリス思想がある。イギリスは中庸の執りかたが非常にうまい。イギリス思想も中庸をとるというバランス感覚に優れている。そのため高遠な思想こそが本当の思想だと思う人たちからは、面白くない思想だと誤解されている。
アリストテレスも同様である。高遠なプラトンに対し、中庸を執るアリストテレスは平凡であると誤解されることがある。
中庸を執らない思想は高遠である。中庸を執る思想は平凡に見える。中庸を執らない思想はインパクトがある。中庸を執る思想はぼんやりしている。中庸を執らない思想は刺激的である。中庸を執る思想は眠たい。中庸を執らない思想はかっこいい。中庸を執る思想は普通に見える。
儒教は本当は内容が充実しているが、理解されづらい。偽凡的なのである。また古典はスルメのようなものであり、戻すのに時間がかかる。
では現代日本人に、無理をしてでも儒教を読め、と言うべきだろうか。私は言うべきではないと思っている。たしかに無理して読んでいるうちにだんだん理解できるようになる可能性はある。しかしいくら読んでもピンとこないという人のほうが多いだろう。だから無理して読めと無責任なことを言う気にはなれない。
ではどうしたらいいか。とりあえず必要なのは、西洋思想と中国思想と現代日本の合成を目指し、その中で儒教を多く引用し、現代日本人に合う形で、その魅力を伝えていくことだろう。わたしは25才の時に、儒教に目覚めたが、なぜ儒教を理解できるようになったのか、なぜそれ以前は理解できなかったのか、本当の原因を自分でも把握できていない。だから儒教への「回心」を現代日本人向けに効率的に再現することはできない。手探りで進むしかない。
続きは自然な方法。人為的な方法。をご覧ください。
■作成日:2024年12月16日。
■上部の画像は葛飾北斎
「女三ノ宮」。
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