真理以外は余計なもの

私欲が公欲にかわり、真理に従うようになった経営者は部下にも自分と同じように、真理に従うように求める。松下幸之助『道は無限にある』から引用する。

給料が高いから働くということもあるかもしれませんが、しかしそれは人間として最高の姿とはいえないように思います。犬であればパンをくれるからついていくといった姿でしょうが、人間はもちろん待遇も一面に必要ですが、ある場合には待遇いかんにかかわらず、人間としての本分を尽くそうといった力強いものがあります。そこに、人間のひとつの尊さがあるわけです。

松下幸之助も部下に真理のために働くよう勧めている。次の言葉もある。

もしかりに会社が、単に儲けるために経営をするというのであれば、それはまことに力弱いことであり、そこからは偉大なものは生まれないと思います。けれども、会社と言うものは本来、利益を得る以上の尊い使命、仕事を遂行するために、お互いは健在でなくてはなりません。そのためには、いろいろな物資も必要です。それを得心の上で社会から与えていただこうというのが利益です。
だから会社に働くみなさん個々人としてもそのとおりです。給料をもらうということは、最高の目的ではないと思います。働くことの最高の目的はもっとほかにあるのです。人間としての使命、また産業人としての使命、さらに具体的には社員としての使命、そういうものをよりよく遂行することによって社会の繁栄に貢献することもできるし、また自分自身の繁栄もそこに約束されます。その約束されるところのひとつの糧として、給料というものがそこに許されているわけです。
給料をもらわなければ生活していくこともできないし、尊い使命を果たしていくこともできない。食べなければ生きていくことさえできない。こういうことになるのです。
それは会社としても同じことなのです。社会から適正な利益を頂戴することはお願いするが、その利益は無意味に使うわけではありません。その半分以上は税金、配当などの形で社会に還元しています。そして残りは、よりよき再生産のための資金として使っていくのです。その一部は従業員の生活の向上へ回す、一部は設備へも回す、というわけです。そうして、そのように利益が生かされていくところから、お互いの社会生活は全体として、国民全体、社会全体として向上していく。こういうことのために、会社は大きな役割を受けもっている、と解釈できるわけです。だから会社の経営は単なる私事でなく、公事なのです。

ジェフ・ベゾスに次の言葉がある。

アマゾンの報酬はかなり高いほうだが、いわゆるカントリークラブのような文化はなく、ただでマッサージを受けられたりといった、そのときの流行りの社員特典のようなものはない。私は昔から特典で人を釣るのはどうかと思っている。そんな理由で会社に留まるのは間違いだからだ。社員が会社に留まるのは、使命のためであってほしい。金目当ての傭兵はいらない。使命に共感できる人間に来てほしい。
伝道者は使命を追求する。シンプルな話だ。しかし無料のマッサージを提供すると、混乱を招くかもしれない。「この会社の使命はあまり気に入らないけど、無料のマッサージは大好き」などと思われたら困る。
卓越した人材を採用し、引きつけておくにはどうしたらいいだろう?まず何よりも、偉大な使命、本当に意義のある目的を与えることだ。

やはりジェフ・ベゾスも会社の使命という真理に共感することを社員に求めている。

真理を大切にする人は真理以外のことには金も時間も使わなくなる。アマゾンのリーダーシップ14カ条に次の言葉がある。『ジェフ・ベゾス 果てなき野望』から引用する。

倹約:顧客にとって意味のないお金は使わないようにする。倹約からは、臨機応変、自立、工夫が生れる。人員や予算規模、固定費が高く評価されることはない。

顧客に役に立つという使命、真理以外にはお金を使わないと宣言されている。ベゾスに次の言葉がある。

「ドアと2×4の角材4枚を組み合わせて作られたベゾスのデスク」は、資金は顧客にとって重要なものに使い、それ以外のものに使うべきではないという象徴である。

アマゾン公式サイトにドアで作られたベゾスのデスクについて紹介がある。

現在、世界中のAmazonオフィスにドア・デスクが設置されています。このデスクの基になっているのは、ジェフ・ベゾスがかつて考案したデザインです
。 1995年の夏、創業間もないAmazonには片手で数えられるくらいのスタッフしかおらず、そのわずかなスタッフは机を必要としていました。ジェフ・ベゾスの友人で5人目のスタッフであるニコ・ラブジョイ(Nico Lovejoy)によると、ベゾスはドアを出てすぐのところで自ら、このありあわせではあるものの、コストパフォーマンスに優れた解決策を見つけたといいます。
ラブジョイはこう話しています。「たまたま、向かいにホームセンターがありました。販売されていた机とドアを見比べたところ、ドアのほうがずっと安かった。それでベゾスは、ドアを買って脚をつけることにしたのです」
こうして、Amazonの「ドア・デスク」が誕生しました。まさかこの手製のデスクがAmazonの文化を象徴する存在になろうとは、当時誰も考えていませんでした。20年以上が経った今でも、世界中で数千人のAmazonのスタッフたちが、このとき作られたドア・デスクをもとにした机で日々仕事をしています。
「私たちがドア・デスクを作ることにしたのは、それが一番お金のかからない方法だったからです。もともと、私たちのやっていることの多くが寄せ集めから生まれたものです。寄せ集めの解決策がうまくいくのであれば、それでいいのではないでしょうか」とラブジョイは言います。

有名なベゾスデスクは真理以外には一切お金を使わないということの象徴なのである。

企業にとって広告は必要である。しかし経営者によっては広告は真理以外にお金を使うことだと考える人もいる。なぜなら企業の商品やサービスが真理を実現していれば、商品・サービス自体に魅力があり、広告を打たなくても口コミで広がっていくからである。真理自体の魅力によって広がっていく。

『ジェフ・ベゾス果てなき野望』から引用する。

顧客は口コミで集まるとベゾスは考えていた。だから、マーケティング費用を浮かせて顧客体験の改善に使ったほうが弾み車を回せると思ったのだ。

広告にお金を使わないということは真理以外にはお金を使わないということである。

ベゾスの次の言葉もある。

テレビ広告にではなく、低価格と無料配送に予算を使うという我々の決定は、この先も顧客に受け入れられていくだろう。

広告に金を使わず、顧客体験の向上に金を使うのである。

『老子』第二十四章に次の言葉がある。

書下し文
企つ者は立たず、跨ぐ者は行かず、自ら表す者は明かならず、自ら是とする者は彰かならず、自ら誇る者は功無く、自ら矜る者は長とせられず。その道にあるや、余食、贅行と言う。物常にこれを悪む。故に有道者は居らず。

現代語訳
つま先立つ者は、長く立つことはできない。大股で歩く者は、遠くまで歩くことができない。自分で宣伝する者は、人に知られることがない。自分で自分を正しいとする者は、その正しさが認められることはない。みずから誇る者は、その功績が認められない。自分の才を誇る者は、周囲からリーダーに推挙されない。
これらは真理という観点からすると余計な食べ物、余計な振る舞いと言われる。自然な道理はつねにこれを嫌う。そのため真理を会得した人は、そこには身を置かない。

真理を認識する人は真理以外にお金や時間や労力を使わない。真理以外に労力を使うのを「余食贅行」「余計な食べ物、余計な振る舞い」と老子は言う。真理以外は余計なものなのである。

つま先立つと確かに他人から大きく見える。背が高く見える。しかしつま先立つときつくて長く立ってはいられない。すぐに本来の身長がばれてしまう。つま先立つという真理にかなわない方法に労力を費やしても、一時的な効果しかなく無駄になるだけである。

われわれも日々生活していて、自分自身を他人により大きく見せようとしたりする。私も含めてである。それがつま先立つということである。そうすると自分をより大きく見せるため無駄な労力を使うことになる。そんなことをするより、本当の意味で自分を成長させるという、真理に適う方法にお金と時間と労力を集中したほうが長期的にはコストパフォーマンスが高い。

大股で歩くと一見スピードが速くなり遠くまで歩けそうである。しかしそのような無理な歩き方は、本来の正しい歩き方という真理に背く方法であり、逆に遠くまで歩くことができない。そのような労力の使い方をするより、自然な歩き方という真理に適った歩き方に労力を集中したほうがいい。真理のみにお金と時間と労力を集中したほうが、最終的にうまくいくという考えである。

「自分で宣伝する者は、人に知られることがない」というのは、ベゾスが広告を打たないことに通じる。広告は「自ら宣伝する者」である。しかし本当にすぐれたものは、口コミで広がっていく。広告は必要だが、老子に言わせればそれは「余食贅行」「余計な食べ物、余計な振る舞い」なのである。

真理を会得した人は真理だけに金と時間と労力を使うのである。

松下幸之助『一日一話』から引用する。

私は、毎日の生活を営んでゆく上において、自分をよく見せようとお上手を言ってみたり、言動にいろいろと粉飾することは大いに慎みたいと思います。これは一見、簡単なことのようですが、口で言うほどたやすいことではありません。ことに出世欲にかられる人は、自分を他人以上に見せようとする傾向が強いようです。
しかし、人はおのおのその素質が違うのですから、いくら知恵をしぼって自分を粉飾してみたところで、自分の生地をごまかすことはできず、必ずはげてきます。そして、そうなれば、いっぺんに信用を落とすことになってしまうのです。私は、正直にすることが処世の一番安全な道だと思います。

他人に自分を大きく見せることは実際出来てしまう。一時的にではあるができる。しかしそれは無駄な努力である。つま先立って高く見せることはできる。しかしそれでは歩きにくい。等身大になって確実に一歩一歩山を登ったほうが、背伸びして背の高さを競うより、はるかに高いところにたどり着く。本当の意味で高いところにたどり着く。背が高く見えるように努力するより、本当に高いところにたどり着く努力をしたほうがいい。

もちろんあまりにもバカ正直すぎて、自分の生地を全部さらけ出すのも場合によっては問題がある。正しいのは中庸を得ることである。ただし中庸は「5:5」とは限らない。「生地:化粧」は恐らく「8:2」くらいがこの場合正しい中庸になる。薄化粧くらいがいいのである。

ジャック・マーに次の言葉がある。

私たちの原則はただひとつ。本当ことを言うことだ。どこでも、いつでも、自分の考えていることを正直に言う。メディアの喜びそうなことを言ったり、彼らの気にいるように嘘を言ったりしてはいけない。いま嘘をひとつ言えば、自分の言った嘘を全部覚えていられなくなる時まで、ずっとその嘘を本当に見せかけなければいけなくなる。それはとても苦しいことだ。人々は正直を愛する。だが、いつでも本当のことだけ言う人は少ない。そうしているだけで、他の人々と差をつけられる。

ジャック・マーの言う通り、正直であるべきだ。常に正直であれば、終始一貫し説得力が増す。嘘をつき続けるという無駄な労力を使わなくて済む。自分を善く見せるために嘘をつくのは、老子の言う「余食贅行」「余計な食べ物、余計な振る舞い」なのである。嘘をつかなければ嘘をつきとおすための無駄な労力が省ける。そこで他人と差をつけることができる。

■作成日:2024年11月30日

続きは直観は自分が何を為すべきか知っているをご覧ください。




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■上部に掲載の画像は山下清「ほたる」。

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