『ビジョナリーカンパニー2 飛躍の法則』では会社で働く人を5つの水準に分けている。
第一水準:有能な個人。才能、知識、スキル、勤勉さによって生産的な仕事をする。
第二水準:組織に寄与する個人。組織目標の達成のために自分の能力を発揮し、組織の中で他の人たちとうまく協力する。
第三水準:有能な管理者。人と資源を組織化し、決められた目標を効率的に効果的に追求する。
第四水準:有能な経営者。明確で説得力あるビジョンへの支持と、ビジョンの実現に向けた努力を生み出し、これまでより高い水準の業績を達成するよう組織に刺激を与える。
第五水準:個人としての謙虚と職業人としての意思の強さという矛盾した性格の組み合わせによって、偉大さを持続できる企業を作り上げる。
わたしなどは仮にうまく働けても第一水準である。会社で働いている人は恐らく第一水準から第四水準までは、よく分かると思う。「ああ、あのひとたちか」と以前共に働いた誰かの顔が思い浮かぶかもしれない。しかし第五水準は分かりにくい。
本書の著者によると、偉大な飛躍を遂げ、その偉大さを持続できる企業を率いた経営者は、ほとんどみなこの第五水準の経営者なのだと言う。それに対して著者は比較対象企業という概念を用いる。比較対象企業とは、すぐれた企業だが飛躍できなかった企業、もしくは一時的に飛躍しても長続きしなかった企業を指す。
著者は第五水準の経営者と比較対象企業の経営者を比較することで偉大な飛躍には何が必要かを明らかにしようとしている。ダーウィン・スミスという経営者の例を挙げて、著者は第五水準の経営者の特徴を明らかにする。次の記述がある。
ダーウィン・スミスはわれわれが第五水準の指導者と呼ぶようになった経営者の典型である。個人としては極端なほどの謙虚さと職業人としての意思の強さをあわせもつ指導者だ。偉大な企業に飛躍した事例ではすべて、転換の時期にこの種類の指導者が指揮をとっていた。どの経営者もスミスと同様に、個人としては控えめであり、同時に、自社を偉大な企業にするために必要なことはすべてやり遂げる意思がきわめて強い。
次の記述もある。
第五水準の指導者は、自尊心の対象を自分自身にではなく、偉大な企業を作るという大きな目標に向けている。我や欲がないのではない。それどころか、信じがたいほどの大きな野心を持っているのだが、その野心はなによりも組織に向けられていて、自分自身には向けられていない。
第五水準の指導者に欲がないのではない。しかしその欲は偉大な企業を作るという公欲になっているのである。だから偉大な企業を作るに必要なことは強い意志でやり遂げる。しかし私利私欲はない。あってもそれには従わない。だから個人としては非常に控えめなのである。それは偉大な企業を作ることが永遠の価値があると知っているからである。私利私欲は一時的な価値しかないと知っているからである。
次の記述もある。
第五水準の指導者は二面性の典型例だといえる。謙虚だが意志が強く、控えめだが大胆なのだ。この概念を素早く理解するには、アメリカの歴史でも数少ない第五水準の大統領のひとり、アブラハム・リンカーンを思い浮かべてみるといい。永続する偉大な国家を作り上げることがリンカーンにとって第一の野心であり、私利私欲によってこの野心の達成を危うくするようなことは決してしなかった。
第五水準の指導者は私利私欲に従わないため謙虚であり、大きな公欲があるため意志が強い。私利私欲に従わないため控えめだが、大きな公欲があるため大胆なのだ。
三国志の孔明と趙雲にも同じことがあてはまる。ふたりとも自分自身の私利に関しては非常に控えめであった。孔明は死後、財産らしいものは何もなかったという。趙雲も自分の名誉や利益より国の大義と利益を重視した。しかしふたりとも国のためという大義のためには非常に強い意志を持っていた。
それに対して比較対象企業の経営者について次の記述がある。
これに対して比較対象企業の経営者は、偉大な経営者だとの世評を集めるのに熱心で、自分が引退した後に会社が成功を収められるようにはしていない場合が少なくない。自分が去った後に会社が転落していくことほど、自分の偉大さを示すものはあるだろうか。
比較対象企業の四分の三以上の経営者は、後継者が失敗する状況を作りだすか、力が弱い人物を後継者に選ぶかしており、両方に当てはまる経営者もいた。
何人かは「最大の犬」症候群に陥っている。群れのなかで自分がいちばん大きな犬でなければ我慢できないのだ。
次の記述もある。
世の中には二種類の人間がいるとわたしは考えている。第五水準の芽をもっている人ともっていない人である。第一の種類の人たちはたとえ百万年待っても、自分自身より大きく、自分の死後にも永続するものを築く大きな野心のために私利私欲を抑えようとは考えない。これらの人たちはつねに、何よりも仕事で得られる名声や財産や追従や権力などに関心をもっており、仕事によって築き上げるもの、創造するもの、寄与できるものには関心を持っていない。
比較対象企業の経営者は一時的な名声、財産、権力に関心がある。それに対して第五水準の経営者は、「自分自身より大きく、自分の死後にも永続するものを築く大きな野心」を持っている。
『言志後録』に次の言葉がある。
書下し文
君子もまた利害を説く。利害は義理に本づく。小人もまた義理を説く。義理は利害に出る。
現代語訳
すぐれた人も利害を説く。しかしその利害は真理を目的としている。劣った人も真理を説く。しかしその真理は利害を目的としている。
すぐれた人も利害を説く。第五水準の経営者も当然部下に「100億円の利益があがった。よくやった。」「100億円の損失があった。どうなっているんだ。」と言う。しかしそれは会社の利益のために言っているのであって、さらには会社が実現する真理のために言っているのである。私利私欲のためではない。
劣った人も真理の実現を語る。しかしそれは会社のためではなく自分自身の名声、権力を実現する手段として、真理の実現を説くに過ぎない。
■作成日:2024年10月18日
続きは真理以外は余計なものをご覧ください。
■このページを良いと思った方、
↓を押してください。
■上部に掲載の画像は山下清「ほたる」。