『荀子』栄辱篇に次の言葉がある。
書下し文
才性知能は君子も小人も同一なり。栄を好みて辱を憎み、利を好みて害を憎むは、これ君子と小人の同じきところなり。そのこれを求むる所以の道の如きは則ち異なれり。
現代語訳
すぐれた人も劣った人も、心の性質や頭の良しあしに違いは無い。栄誉を好んで恥辱を嫌がり、利益を好んで損害を避けたいのは、すぐれた人も劣った人も同じなのである。しかし栄誉や利益をもとめるその方法に違いがある。
すぐれた人も劣った人もおなじように栄誉を欲し利益を好む。恥辱や損害を避けたいと思う。すぐれた人にも欲はある。しかし欲を満たす方法が違う。
本当の栄誉は真理の実現でしか得られない。小手先のハッタリは一時的に人をだませるだけである。本当の幸福は道徳の実現でしか得られない。私欲を満たす快楽は一時的に自分をだませるだけである。
ほかにもたとえば他人から信頼を受ける方法もそれと同様である。本当の信頼は真理の実現と道徳の体現でしか得られない。小手先の手法でだまして得た信頼は一時的なもので終わる。荀子の言葉は次のように続く。
書下し文
君子は自ら信にして、また人の己を信ぜんことを欲し、忠にしてまた人の己に親しまんことを欲し、修正治弁にしてまた人の己を善とせんことを欲し、慮ることは知り易く行うことは安んじ易く、持することは立て易く、遂には則ち必ずその好む所を得て、必ずその憎むところに遇わず。
現代語訳
すぐれた人は人に信じられるようなことを行ったうえで、他人に信じられることを欲し、人に誠実にしたうえで他人に親しまれたいと思い、自分の行いや言葉を正しくしたうえで他人に良き人だと思われようとし、思慮することは分かりやすく、行うことは安泰であり、掲げる信念は他人にとっても尊重しやすい。だから最終的にはその求めるところの名誉と利益を得て、その避けたいところの恥辱と損害を逃れることができる。
すぐれた人は人から信頼されたいという欲が真理の実現と道徳の体現に向かう。公欲になる。その結果本当の意味で信頼される。「信じられるようなことを行ったうえで、他人に信じられようとする」とは眠たくなるほど当たり前のことである。しかし当たり前だからこそ当たり前に望んだ結果を実現できるのである。その信頼は真理にもとづいているからである。真理の持つ自然な力が働く。自然にしていても人から信じられるようになり、最終的に名誉と利益を得る。
それに対して劣った人は真理の実現や道徳の体現以外の方法で他人の信頼を得ようとする。詐欺や計略など余計な作為をもって信頼を得ようとする。次の記述がある。
書下し文
小人なる者は努めて誕を為しながらしかも人の己を信ぜんことを欲し、努めて詐を為しながらしかも人の己に親しまんことを欲し、禽獣の行なるにしかも己を善とせんことを欲し、慮ることは知り難く、行うことは安んじ難く、持することは立て難く、遂には則ち必ずその好むところを得ずして、必ずその憎むところに遇うなり。
現代語訳
劣った人というのは、嘘をつきながら他人に信じられたいと思い、詐欺を行いながら他人に親しまれたいと思い、畜生の行いをしながら他人に良き人だと思われようとし、思慮することは分かりづらく、行うことは安泰ではなく、掲げる信念は他人からして尊重しがたい。だから最終的にはその求めるところの名誉と利益を得られず、その避けたいところの恥辱と損害を得ることになる。
だますのがうまい人が一時的に信用を得ることはある。「あ、うまくいった」と思ってそのような手法を常にとる人もいる。しかしそれはその場限りの効果しかない。真理の実現や道徳の体現以外の小手先のテクニックで信頼を得ようとしても、その効果は時とともに消えてしまう。小手先の作為はあざやかで一見頭が良いように見えて最終的にうまくいかないのである。浅い知恵であり叡知ではない。
■2025年5月25日追記。
ラ・ロシュフーコー『箴言集』に次の言葉がある。
狡智は小智に過ぎない。
次の言葉もある。
普段から策を弄するのは小才のしるしであって、あるところで策を講じて自分を糊塗しても、別のところでぼろを出すようなことが、ほとんど必ず起きるものである。
策を弄するのを全否定するつもりはないし、策に引っ掛からないためにある程度権謀に習熟する必要はあると個人的には思う。しかし普段から策を弄する人は、しょっちゅうぼろを出し信頼を失う結果になる。
『菜根譚』に次の言葉がある。
書下し文
勢利紛華に近づかざる者を潔しと為し、
これに近づきて而も染まらざる者を、最も潔しと為す。
智械機巧は知らざる者を高しと為し、
これを知りて而も用いざる者を最も高しと為す。
現代語訳
権力や利益に近づかない人は高潔な人である。
しかしこれらに近づいても欲望に染まらない人は最も高潔な人である。
権謀術数を知らない人は高尚な人である。
しかしこれを知っても自分では用いない人は最も高尚な人である。
権謀術数を知りながら自分では基本的には用いない、これが絶妙なバランス、正しい中庸である。
■追記終。
■2025年6月4日追記。
付け足しになるが権謀術数を全否定するつもりはない。日本の歴史に詳しい司馬遼太郎は、「大業というものは、1から99までは徹底して正論で押して、最後に少しだけ権謀を用いて完成するものだ」という趣旨のことを述べている。
ラ・ロシュフーコー『箴言集』から引用する。
最も利口な人たちは、自分が何かの大事に際して何か大きな利益のために詭計を用いることができるように、生涯ずっと詭計を非難するふりをし続ける。
これは司馬遼太郎と同じことを述べている。権謀術数は大業を為すときに一度だけ用いるというのだ。
■追記終。
話は戻る。一見あざやかな狡智に対し正しい真理にもとづく方法は一見ぼんやりしているが時がたつとともにその効果はボディーブローのようにあとからあとから効果を現していく。
荀子はすぐれた人と劣った人に心や知性での違いはないという。人に信じられたいという思いはすぐれた人も劣った人も同じである。頭の良さもかわらない。巧みな詐術を見ていると劣った人のほうが頭がよく見えるときすらある。心や知性での違いはないという。しかし両者では信頼を得るための方法が違う。次のように続く。
書下し文
小人は首を延べ踵を挙げて、知能材性、もとより以て人に優ることあらんと願い言わざるは無し。それその己と異なること無きを知らざるなり。
現代語訳
劣った人たちは首をのばし踵をあげて、すぐれた人たちを慕いながら、「彼らは知能や心のあり方が普通の人とは違うのだろう」と言い、すぐれた人たちも自分たちと違いがないということが分からないのである。
『中庸』第十九章に次の言葉がある。
書下し文
君子の道は闇然として而も日々章かに、
小人の道は的然として而も日々に亡ぶ。
現代語訳
すぐれた人の道は一見ぼんやりしていながら、 日に日にその真価が表れてくるが、
劣った人の道ははっきりと人目をひきながら、 日に日に消え失せてしまう。
真理による信頼を得る方法は一見ぼんやりしているが日に日に効果が現れる。小手先の手法は一見鮮やかだが日に日に効果は消えていく。『老子』第三十五章に次の言葉がある。
書下し文
道の言を出だすは淡乎として其れ味無し。
是を視れども見るに足らず、
是を聴けども聞くに足らず、
是を用うれども尽くすべからず。
現代語訳
真理が言葉に表されると淡々としていて味がない。
これを視ようとしても見えず、
これを聴こうとしても聞こえない。
しかし真理の働きはいくら用いても尽き果てない。
同じことを述べている。真理にもとづく方法は言葉にすると淡々として味がない。「信じられるようなことを行ったうえで、他人に信じられようとする」という言葉には当たり前すぎて何の刺激も味もない。しかし真理の働きは尽きることがない。
『言志後録』に次の言葉がある。
書下し文
天を以て得たる者は固く、人を以て得たる者は脆し。
現代語訳
自然な真理によって得たものは確固としており、小手先の人為によって得たものは脆弱である。
真理とは天から来るという思想がある。先に挙げた『荀子』栄辱篇の言葉の通り、真理の実現によって得た信頼は、一見ぼんやりしているが自然にして確固不動で長く続く。それに対し小手先のテクニックによって得た信頼は、一見あざやかなようだが、不自然にして脆弱であり一時的である。
真理を実現し道徳に従うことが本当の意味での名誉と幸福を得る確実な方法である。不正を働き私欲に従うことは、恥辱と不幸を得てしまうための確実な方法である。
しかし神は老獪である。真理を実現し道徳に従う人もまさに真理と道徳を大切にするがゆえに一時的に苦しみを得るようにできている。逆に不正を働き私欲に従う人も、まさに不正と私欲に従うがゆえに一時的に栄達できるようにできている。
『荀子』栄辱篇に次の言葉がある。
書下し文
仁義徳行は常安の術なり。然れども必ずしも危うからずんばあらず。汚慢突盗は常危の術なり。然れども未だ必ずしも安からずんばあらず。故に君子はその常に由るも、小人はその怪に由る。
現代語訳
仁義を実践し徳を行うのは安泰を得るための確実な方法である。しかしそれでも運悪く危害に遇わないとは限らない。邪な行いや盗みを行うことは危害を受けるための確実な方法である。しかしそれでもまぐれあたりで安泰を得ることもある。すぐれた人はその確実さをよりどころをしていくが、劣った人はそのまぐれあたりをよりどころとしていく。
■作成日:2024年6月2日
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■上部に掲載の画像は山下清「ほたる」。